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第26話 敵だった令嬢に、真実を話す席を用意します

その夜、フォンドール家の温室で明日の晩餐会の準備をしていた私の元に、予期せぬ来訪者が現れた。


「お嬢様、夜分遅くに申し訳ありません。ラザフォード侯爵家より、ビアンカ・メルローズ様がお見えです。ひどく取り乱しておられて……」


困惑したメイドの報告に、私は手を止めた。

ビアンカ様。あの日、王宮の夜会でエドガー様の隣に立ち、私を嘲笑の渦に突き落とす一端を担った、男爵令嬢。

彼女がなぜ、こんな夜更けに私を訪ねてきたのだろうか。


「……客間にお通しして。私もすぐに行きます」


急いで客間に向かうと、そこには信じられない姿のビアンカ様がいた。

夜会で見かけた時の、小鳥のように可憐で華やかな装いはない。地味な外套を頭からすっぽりと被り、息を切らして震えている。その顔色は、まるで幽霊のように真っ青だった。


「ビアンカ様。どうなさいましたか、こんな時間に……」

「リリアン様……っ!」


私の姿を認めた瞬間、ビアンカ様は床に膝をつき、ドレスの裾を握りしめて泣き崩れた。


「申し訳ありません! あの夜、私がエドガー様の隣で、あなたを傷つける側に立っていたこと……本当に、申し訳ありませんでした……っ!」


突然の謝罪に、私は言葉を失った。

彼女の目から溢れる涙には、嘘や計算の色はない。極限の恐怖と、押し潰されそうな罪悪感が入り混じった、悲痛な叫びだった。


私はメイドを下がらせ、扉を閉めた。


「顔を上げてください、ビアンカ様。……何があったのですか」

「私……聞いてしまったのです。ヴィクトリア夫人の、恐ろしい計画を……」


ビアンカ様は、ガタガタと震える手で自身の腕を抱きしめながら、途切れ途切れに語り始めた。


彼女が、家の借金をヴィクトリア夫人に握られ、エドガー様の飾り物として利用されていること。

そして今日、夫人が私を『男たちを洗脳する魔性の歌姫』として王都中に噂を流すよう命じ、さらには『沈黙香』という恐ろしい薬を用意していること。


「沈黙、香……?」

「はい。見た目はただの白い花束だそうです。それを嗅ぎ続ければ、自己否定の感情が増幅され、やがてあなたの声の力が……完全に失われてしまうと」


背筋に冷たいものが走った。

ヴィクトリア夫人は、私を社交界から追放するだけでは飽き足らず、私から歌声そのものを奪おうとしているのだ。それも、私の『自分の価値を低く見積もる』という弱点を正確に突き、自らの心で喉を潰させるような、陰湿極まりない方法で。


「私、怖くて……。でも、これ以上、あなたが傷つくのを見過ごすことはできませんでした。……私は、あなたのように強くはなれないけれど、せめてこのことだけは、お伝えしなければと……!」


ビアンカ様は、再び床に額を擦りつけるようにして泣きじゃくった。


彼女の告白を聞いて、私の胸の中に渦巻いたのは、ヴィクトリア夫人への恐怖だけではなかった。

目の前で泣き崩れるビアンカ様に対する、ひどく複雑な感情だ。


彼女もまた、社交界の基準と権力に縛られ、自分を削らざるを得なかった被害者の一人だ。

それを理解していても、婚約破棄の場で、私を豚だと笑う貴族たちの中で、彼女がエドガー様の腕に身を寄せていた光景は、私の中に深い傷として残っている。


「……ビアンカ様」


私は、静かに口を開いた。


「あなたが今日、危険を冒してまで私に真実を伝えに来てくださったことには、心から感謝いたします。あなたのその勇気がなければ、私は確実に声を奪われていたでしょう」

「リリアン様……」

「ですが」


私は、決して彼女を抱き起こそうとはしなかった。


「あなたが私の隣の席を奪い、私を嘲笑の場に立たせたあの夜の痛みを、私は忘れてはいません。あなたに事情があったのだとしても、私が受けた傷が消えるわけではないのです」


私が安易に彼女を許して「もういいのよ」と微笑めば、彼女の罪悪感は少し軽くなるかもしれない。

けれど、それは嘘だ。私はまだ、彼女に笑顔を向けられるほど、傷が癒えてはいない。


ビアンカ様はハッとして顔を上げ、やがてポロポロと涙を流しながら、深く頷いた。


「……はい。許されたいなどと、厚かましいことは申しません。私は、あなたを傷つけた側に立っていました。……ただ、もう黙っていたくありません」


その言葉には、ヴィクトリア夫人の人形として生きることを拒絶する、彼女自身の確かな意志が宿っていた。


私は、小さく息を吐いた。

過去の傷をすぐに水に流すことはできなくても、今、自分の足で立とうとしている彼女を、そのまま暗闇に突き放すことはできない。


私は客間のテーブルに置かれていた、一冊の手帳を手に取った。

『月夜の記録帳』。ここには、社交界で傷ついた令嬢たちの、誰にも言えなかった本音が詰まっている。


「私は、あなたを今すぐ許せるほど強くありません」


私は、その記録帳をそっとビアンカ様の前に置いた。


「でも、あなたが本当のことを話す場所なら用意できます」

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