第25話 男爵令嬢ビアンカの本音
ラザフォード侯爵家の豪奢な客間は、私にとって黄金で作られた鳥籠だった。
私の名前は、ビアンカ・メルローズ。
落ちぶれた貧乏男爵家の娘であり、世間からは『フォンドール伯爵令嬢からエドガー様を奪った、美しく可憐な新しい婚約者候補』として認知されている。
だが、現実は全く違った。
エドガー様が私を愛しているわけではない。彼はただ、前婚約者であるリリアン様とは正反対の、「細くて、逆らわなくて、自分の見栄を満たしてくれる従順な飾り」が必要だっただけだ。
そして何より、私をこの家に縛り付けているのは、エドガー様の母であるヴィクトリア夫人だった。
『あなたの家の莫大な借金は、我が侯爵家が肩代わりしてあげましたよ。あなたが私の言う通りに美しく振る舞い、エドガーの良き伴侶となるのなら、家族の安全は保証しましょう』
初めてこの屋敷に呼ばれた日、夫人が冷たい微笑みと共に突きつけてきた借用書の束を、私は一生忘れることができない。
少しでも太れば、少しでも彼女の意に沿わない発言をすれば、家族ごと路頭に迷う。その恐怖だけが、私に極限の絶食を強要し、空っぽの笑顔を作らせていた。
夜会で、エドガー様がリリアン様に婚約破棄を突きつけたあの夜。
私は彼の隣で、震える手でドレスを握りしめていた。周囲の貴族たちがリリアン様の体型を嘲笑するたびに、明日は我が身かもしれないという恐怖で息が止まりそうだった。
けれど、リリアン様は泣かなかった。
堂々と背筋を伸ばし、『私の身体を笑ってよい理由にはなりません』と言い放った彼女の姿は、ひどく美しく、そして私の浅ましい罪悪感を激しく抉った。
本当は、私だって食べたかった。笑いたかった。
彼女が主催しているという『月夜の晩餐会』の噂を聞くたびに、そこに自分の居場所があったらどんなに良いだろうかと、叶わぬ夢想をしては一人で泣いていた。
「……ビアンカ、何をぼんやりしているの」
不意に背後から声をかけられ、私はビクッと肩を震わせた。
廊下を歩いてきたヴィクトリア夫人が、冷ややかな視線で私を見下ろしている。
「も、申し訳ありません、お義母様。少し、疲労が……」
「疲労? 何もしていないあなたが疲れるはずがないでしょう。明日の茶会までに、あと指一本分はウエストを締めなさい。エドガーの隣を歩く自覚を持ちなさい」
夫人は忌々しげに言い捨てると、私を一瞥もせずに自身の私室へと入っていった。
私は壁に寄りかかり、荒くなった呼吸を必死に整えた。
ふと、完全に閉まりきっていない夫人の私室の扉の隙間から、聞き慣れない男の声が漏れてきた。
「……手筈は整っております、奥様」
「ええ、ご苦労さま。あの小鳥は、最近少しばかり目立ちすぎました。王弟殿下や騎士団長を籠絡するとは、何たる恥知らず」
ヴィクトリア夫人の声には、怒りよりも深い、絶対零度の冷たさが混じっていた。
「社交界の美の基準は、私が定めたものです。あのようなふくよかな令嬢が認められるなど、決してあってはならない。……すぐに、王都中に噂を流しなさい。『リリアン・フォンドールの歌声は、男たちを洗脳する魔性の力だ』と」
魔性の歌姫。
その言葉の恐ろしさに、私は思わず口元を両手で覆った。
もしそんな噂が定着すれば、リリアン様は魔女として王宮から断罪されかねない。
「それから、例の香も準備できているわね?」
「はっ。こちらが『沈黙香』でございます。見た目はただの美しい白い花束。これを嗅ぎ続ければ、本人の自己否定が増幅され、やがてあの忌まわしい声の共鳴は完全に失われるでしょう」
「結構。……次の王宮大舞踏会の前に、あの小鳥の喉を永遠に潰してさしあげましょう」
ガタッ、と。
恐怖のあまり、私が寄りかかっていた壁際の飾り棚が微かに揺れた。
「誰!?」
鋭い声と共に足音が近づいてくる。
私は心臓が破裂しそうなほどの恐怖に急き立てられ、足音を殺してその場から全力で逃げ出した。自室に飛び込み、内側から鍵をかけて、ベッドの脇に崩れ落ちる。
どうしよう。
このままでは、リリアン様が完全に潰されてしまう。彼女の優しい歌声が、あの美しい食卓が、ヴィクトリア夫人の手によって永遠に失われてしまう。
私なんかが口出しをすれば、借金を盾にされて家族がどうなるか分からない。
黙っていればいい。今まで通り、何も見なかったふりをして、人形のように笑っていれば、少なくとも私自身の命は保証されるのだ。
――けれど。
『私を嫌いになったことは、仕方ありません。けれど、私の身体を笑ってよい理由にはなりません』
あの夜、絶望の淵にあっても決して自分を明け渡さなかった、彼女の凛とした声が耳の奥で蘇る。
私が彼女の隣でエドガー様に寄り添い、彼女を傷つける側に立っていた事実は消えない。許される資格なんて、私にはこれっぽっちもない。
それでも、これ以上、誰かが自分を削って生きる世界を見過ごすことは、どうしてもできなかった。
私は震える手で、デスクの引き出しから真っ白な便箋とペンを取り出した。
もう、後戻りはできない。
私は便箋に、『今夜、どうしてもお伝えしなければならないことがあります』と書き始めた。




