第24話 王弟殿下は、私の傷に気づいてしまう
ヴィクトリア夫人の茶会を途中退席するという前代未聞の騒動から、数日が過ぎた。
私が主導したとはいえ、公然と最大派閥に牙を剥いた報復を覚悟していた令嬢たちだったが、意外にも社交界は静まり返っていた。
王弟殿下の紋章と、騎士団長レオン様の護衛という二重の盾が機能しているのに加え、『月夜派』と名乗る者たちが予想以上の速さで結束を固め始めたからだろう。
その日の夜。
参加者たちが満足げに帰った後の静かな温室で、私は一人、冷めた紅茶を片手に月を見上げていた。
「……随分と、思い切った真似をしたものだな」
不意に背後から声をかけられ、私はびくっと肩を揺らした。
振り向くと、そこにはいつの間にか温室に入ってきていた、漆黒の軍服姿のクラウス殿下が立っていた。
「殿下……。申し訳ありません、事前にご相談もせずに、あのような騒ぎを」
「謝る必要はない。むしろ、よくやってくれたと褒めるべきだろう。……君が連れ出した令嬢たちの顔は、以前とは比べ物にならないほど晴れやかだった」
クラウス殿下は私の向かいの席に腰を下ろし、ランタンの淡い光の中で、私をじっと見つめた。
その青い瞳は、決して私を責めているわけではない。けれど、私の心の奥底まで全てを見透かしているような、鋭く、静かな光を宿していた。
「ですが、君は一つ、大きな間違いを犯している」
「間違い、ですか?」
「ああ。君は他人の痛みには驚くほど敏感で、他人のためには本気で怒ることができる。……だが、自分自身の傷に対しては、あまりにも鈍感すぎる」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
殿下は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あの茶会で、ヴィクトリア夫人の取り巻きから、巨大なケーキを押し付けられ、おかわりをしろと嘲笑われた時。……君は怒るどころか、ただ笑って受け流したそうだな」
「それは……あの場で私が怒れば、晩餐会そのものが攻撃される口実を与えてしまいます。だから、私が我慢すれば……」
「そうやって、君はずっと自分の心を誤魔化してきたのか?」
殿下の低く静かな声が、温室の空気を震わせた。
「あの夜会で、エドガー・ラザフォードから公開で婚約を破棄され、何百人という貴族たちから体型を嘲笑われた時も、君は泣かなかった。……だが、傷つかなかったわけではないのだろう?」
――ズキン、と。
胸の奥で、蓋をして見えないふりをしていた古傷が、鋭く痛んだ。
泣いてたまるか。そう思って、背筋を伸ばしたあの日。
豚のようだと罵られ、価値がないと切り捨てられ、それでも私は「私を嫌いになるのは仕方ない」と、理不尽な現実をどこかで受け入れてしまっていた。
『リリアン様を笑わないで』
マリアベル様が立ち上がってくれた時、私の中で何かが崩れた。
私は、悲しかったのだ。本当は、誰かに助けてほしかった。嘲笑されるたびに、少しずつ心が削り取られ、血を流していたのだ。
「……殿下、私は……」
強がろうとした声は、情けないほどに震えていた。
視界が滲み、ぼやけていく。私がずっと隠し続けてきた惨めな本音を、殿下はあっさりと暴き、そして、決して否定しなかった。
「……ごめんなさい、私……本当は、すごく……怖くて、悲しかった……」
ポロリと、私の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
あの日、王宮の大広間で流せなかった涙が、今になって堰を切ったように溢れ出してきたのだ。
私は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。
クラウス殿下は何も言わず、ただ静かに席を立ち、私の隣へと歩み寄った。
そして、私の顔を覆っていた震える手をそっと優しく包み込み、自分の口元へと引き寄せた。
「殿、下……?」
驚いて涙濡れた顔を上げると、クラウス殿下は目を伏せ、私の手袋の甲に、羽のように軽い口づけを落とした。
それは、貴族の男性が、真に敬意と愛を捧げる女性に対してのみ行う、最上級の礼儀。
触れた唇から伝わる確かな熱に、私の心臓が大きく跳ねた。
「君は、誰かの痛みを和らげるために歌い、自らを盾にしてまで傷ついた者たちの席を守り抜いた。……そんな気高く美しい君が、自分自身の価値を疑う必要など、どこにもない」
クラウス殿下は、私の手を握ったまま、少しだけ顔を近づけ、その真っ直ぐな青い瞳で私を捉えた。
そして、決して揺らぐことのない、誓いのような声で告げた。
「君を軽く扱う者の隣に、私は立たない。君の隣に立つ」




