第19話 商会長様、初めて損を選ぶ
私が温室でセドリック様をきっぱりと拒絶し、「ここに来た人たちの傷を売ったのです」と怒りをぶつけた、翌日のこと。
王都の大通りは、ちょっとした騒ぎに包まれていた。
昨日まで飛ぶように売れていた『月夜の菓子』と『歌姫の香茶』が、たった一夜にして全ての店頭から完全に姿を消したのだ。
それだけではない。
ヴェイン商会は、すでに商品を販売した全ての顧客に対し、「当商会の不手際により、理念に反する商品を流通させてしまった」という異例の謝罪文を出し、全額返金での自主回収を始めたという。
「……信じられないわ。いくらなんでも、早すぎる」
フォンドール家の客間で報告を受けた私は、呆然と呟いた。
あれだけ大々的に展開していた商品を即座に全回収し、返金まで行うとなれば、ヴェイン商会が被る金銭的損失は莫大なものになる。
損をすることを何よりも嫌う商人が、なぜ自分からそんな大損を被るような真似をしたのか。
「お嬢様、ヴェイン商会のセドリック様がお見えです」
メイドの案内とともに客間に入ってきたセドリック様は、いつもの派手な真紅のコートではなく、落ち着いた深い紺色の装いだった。
徹夜で回収と返金の指示を出していたのだろう。髪は少し乱れ、目の下には微かに疲労の色が滲んでいる。だが、その黄金色の瞳だけは、驚くほど真っ直ぐで、澄み切っていた。
「……リリアン様。昨日は、大変非礼な振る舞いをいたしました」
彼は私の数歩手前で立ち止まると、深く、丁寧な一礼をした。
あの飄々とした彼からは想像もつかないほど、真摯な謝罪の姿勢だった。
「商品は全て回収し、返金の手続きを進めています。……貴女の晩餐会の大切な理念を汚し、参加された令嬢たちの心を不当に傷つけてしまったこと、弁解の余地もありません。本当に、申し訳ありませんでした」
「セドリック様……。お顔を上げてください」
私が促すと、彼はゆっくりと顔を上げた。
「あの大規模な販売を全て取り消すなんて。商会にとって、痛手だったのではないですか」
「ええ。目玉が飛び出るほどの大赤字ですよ。……おまけに、今回の一件を『歌姫商売』だと吹聴していたヴィクトリア夫人の派閥に属する貴族商会との専属契約も、全てこちらから破棄してやりましたからね。違約金も支払う羽目になりました」
彼は自嘲するように、フッと短く笑った。
ヴィクトリア派の商会との契約を切る。それはつまり、社交界の最大派閥を完全に敵に回すということを意味している。
商人にとって、それがいかに致命的な選択であるか、私にも痛いほど分かった。
「なぜ、そこまで……。あなたは、損をすることが嫌いだと仰っていたのに」
私の問いかけに、セドリック様は少しだけ視線を落とし、ぽつりと語り始めた。
「私は平民の出です。泥水すするような底辺から、金だけを信じて這い上がってきた。……金がなければ、惨めに死ぬしかなかったからです」
彼の声には、彼が必死に隠してきた、拭い去れない過去の痛みが滲んでいた。
「私は、損をすることが極端に怖かった。だから、金になるものなら何でも売りました。貴族の弱みも、令嬢たちの同情も。……でも、昨日、貴女に真っ向から叱り飛ばされて、ハッとしました」
セドリック様は自嘲の笑みを消し、私の目を真っ直ぐに見据えた。
「金儲けのために、弱い立場の者から安全な居場所を奪い、その傷を見世物にして笑う。……それは、私が最も憎んでいた、腐りきった貴族たちのやり方と全く同じだったからです」
彼は、自分が金に執着するあまり、いつの間にか他者の痛みに鈍感な人間になり下がっていたことに気づいたのだ。
そして、それに気づかせてくれた私の晩餐会を、何よりも守るべき尊いものだと判断してくれた。
「リリアン様。商人としての大損は、これから私が命懸けで取り戻します。ですが、人としての誇りを失うような損だけは、もう二度とごめんだ」
セドリック様は、懐から一枚の分厚い書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、大量の食料品や日用品の目録が記されていた。
「聞けば、王都の孤児たちを招いて、ささやかな晩餐会を開くご予定だとか。……この目録にある品は全て、ヴェイン商会から無償で提供させていただきます。孤児院の支援は、私の過去への落とし前のようなものですから」
「……無償で、ですか? それでは、あなたがまた損をしてしまいますわ」
私が驚いて尋ねると、彼はいつもの人当たりの良い、けれど今までで一番晴れやかな笑顔を浮かべた。
「いいえ。これは損ではなく、最高の『投資』です」
若き商会長は、初めて自らの意思で利益を手放した。
金以外の価値を信じなかった男が、私というちっぽけな令嬢の理念に、自分の全てを懸けてくれたのだ。
彼は胸に手を当て、最高級の敬意を込めて、私に深々と頭を下げた。
「君の願いを守る商売をさせてくれ」




