第18話 月夜の名を売られて、晩餐会が傷つきました
氷の王弟殿下の後援と騎士団長の護衛、そして宮廷魔導師による安全性の証明。
三つの強力な盾を得たことで、月夜の晩餐会はついに誰にも脅かされない、令嬢たちの安息の場になったはずだった。
しかし、その平穏は、外部からの圧力ではなく、思いもよらない形であっさりと破られることになった。
ある日の午後。
フォンドール家の温室にやってきたアイリス様とマリアベル様の顔は、酷く青ざめ、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「リリアン様……。これ、王都の大通りで大々的に売られていました」
アイリス様が震える手でテーブルに置いたのは、豪奢な装飾が施された真紅の小箱だった。
小箱には、金色の流麗な文字で『月夜の菓子』、そして『歌姫の香茶』と刻まれている。製造者を示す箇所には、セドリック・ヴェイン様が率いる『ヴェイン商会』の紋章が誇らしげに押されていた。
私は絶句した。
先日、彼が興行化を持ちかけてきた際、私ははっきりと断ったはずだ。それなのに彼は、私の許可を一切取ることなく、晩餐会の名前と私の歌声を商品の宣伝文句として無断で利用したのだ。
「商品は、飛ぶように売れているそうです。でも……」
マリアベル様が、両手で顔を覆いながら言葉を継いだ。
「ヴィクトリア夫人の茶会で、この商品が嘲笑の的になっていると聞きました。『やはりあの晩餐会は、平民の商人と結託した歌姫商売だったのだ』と……。『傷ついた令嬢たちを客寄せにして、同情を金に換える下品な茶会だ』と、皆が笑っているそうです」
その言葉を聞いて、私の胸の奥が急速に冷えていくのを感じた。
ヴィクトリア派の貴族たちが私を悪く言うのは、今に始まったことではない。だが、彼女たちが広めた悪意ある噂は、晩餐会に救いを求めてやってきた令嬢たちの心を、これ以上ないほど深く抉っていた。
「私たちは……お金儲けのための、哀れな見世物だったのでしょうか」
アイリス様の悲痛な呟きに、私は弾かれたように首を振った。
「違います! 私は決して、そんなつもりで皆様をお招きしたわけでは……!」
「分かっています、リリアン様の優しさは本物だと信じています。でも、周囲の目が、社交界の笑い声が……怖くて……っ」
アイリス様はテーブルに突っ伏し、泣き崩れてしまった。
彼女たちがどれほどの勇気を振り絞って、自分を縛る呪いから逃れるためにこの温室へやってきたか。その切実な思いが、ただの「商売の道具」として世間に消費され、再び彼女たちを社交界の冷笑の的にしてしまったのだ。
「お嬢様、ヴェイン商会のセドリック様がお見えです」
メイドの控えめな声が響いた直後、温室の入り口に、真紅のコートを着こなした張本人が姿を現した。
「やあ、リリアン様! 素晴らしい成果ですよ。王都中の貴族も平民も、こぞって商品を買い求めています」
セドリック様は上機嫌な笑みを浮かべ、ずしりと重い革袋をテーブルの上に置いた。
チャリン、と硬貨の擦れる音が響く。
「これが初回販売分の利益の配当です。これだけあれば、晩餐会の食事をさらに豪華にできるでしょう。貴女にとっても、私にとっても、完璧な取引です」
「……取引?」
私は地を這うような低い声で呟き、彼を真っ直ぐに睨みつけた。
私の体型を笑われ、どんな言葉をぶつけられても、私は怒らなかった。自分の価値が低いと思っていたから、怒る資格なんてないと思っていた。
けれど今、私の心の中で燃え上がっているのは、間違いなく激しい怒りだった。
「私がいつ、あなたと取引をしたというのですか」
「おや、怒っていらっしゃる? しかしリリアン様、結果を見れば誰も損はしていませんよ。私は莫大な利益を得て、貴女は資金と名声を得た。……私は、損をすることが何よりも嫌いなのです。確実に儲かる商機を逃す商人は、無能でしかありませんからね」
セドリック様は、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
彼は金以外の価値を信じていない。だから、自分がどれほど残酷な真似をしたのか、本気で理解していないのだ。
「名声など、私は欠片も望んでいません。このお金も、ただちに持ち帰ってください」
私はテーブルの上の革袋を、彼の方へと冷たく突き返した。
セドリック様が、初めて戸惑ったように目を瞬かせる。
「なぜです? 金は、力ですよ。これがあれば、貴女の理念はもっと広く……」
「お金で買えないものを、あなたが壊したからです!」
私の強い声に、セドリック様が息を呑んだ。
私は泣き崩れるアイリス様の肩をそっと抱き寄せ、彼を強い眼差しで射抜いた。
「私の名前や歌声が世間でどう言われようと、構いません。でも、ここは違う。ここは、彼女たちが社交界の評価から逃れ、自分自身を取り戻すための、たった一つの安全な場所だったのです」
震える令嬢たちの姿を見て、どうして平気でいられるのだろう。
彼女たちは、血を流しながらここまで逃げてきたというのに。
「あなたは、私の歌ではなく、ここに来た人たちの傷を売ったのです」




