第17話 忘れた子守唄と、支配しない歌
「ならば、君が人を支配していないと証明してみせろ」
ユリウス様の冷たく鋭い声が、フォンドール家の客間に響いた。
私を『危険物』として王宮に登録し、封印するという彼の通告。それに抗うためには、私の声が洗脳ではないと、この天才魔導師に納得させなければならない。
だが、私にはそれができない理由があった。
「……証明は、できません」
「なんだと? 口では何とでも言えるが、いざ証拠を出せと言われると逃げるのか」
「そうではありません。私の歌は、自分を守るためや、利益を得るための道具としては声にならないのです。あなたを論破して私の安全を証明しようとしても、決して歌にはなりません」
私の言葉に、ユリウス様は忌々しげに眉をひそめた。
言い訳にしか聞こえないだろう。しかし、それが『天響の声』の絶対に破れない制約なのだ。
どうすれば彼に理解してもらえるのか。
私は彼を真っ直ぐに見つめ返し、ふと、彼の苛立ちの裏にあるものに気がついた。
彼は深くソファに腰掛け、腕を組んで私を威圧している。しかし、その指先は微かに震え、目の下には相変わらず濃い隈が刻まれていた。
先日、私の歌でほんの少しだけ眠りに落ちたはずなのに、彼の身体からは、以前にも増して強い『睡眠への恐怖』が伝わってくる。
「……ユリウス様。あなたは、ご自身が眠りに落ちることを極端に恐れていらっしゃる」
「私の個人的な不眠は、今の話に関係ないだろう」
「関係あります。あなたは、眠ることで『何か』を失うことを恐れているのではないですか?」
私の問いかけに、ユリウス様はビクッと肩を震わせた。
氷のように冷徹だった紫の瞳が、初めて大きく揺らぐ。
「……君に、何が分かる」
彼はギリッと歯を食いしばり、まるで傷ついた獣のような目で私を睨んだ。
「私は天才と呼ばれてきた。どんな複雑な魔術式も、一度見れば完璧に記憶できる。……だが、どれほど記憶力に優れていようと、時の流れには勝てないのだ」
ポツリと、彼が吐き出した言葉。
それは、宮廷魔導師としての威厳をかなぐり捨てた、ひとりの青年の悲痛な本音だった。
「私がまだ幼かった頃、母が死んだ。……眠れない夜には、いつも母が子守唄を歌ってくれていた。だが、あれから年月が経ち、私が眠りにつこうと目を閉じるたび……夢の中で、母の顔が、あの優しかった子守唄の旋律が、少しずつ欠け落ちていく」
彼は震える手で、自身の顔を覆った。
「眠れば眠るほど、私は母を忘れていく。自分が最も大切だったものを失っていく残酷な事実を、夢の中で突きつけられる。……だから、私は眠るのが怖いのだ」
天才であるがゆえに、完璧であったはずの記憶がすり抜けていく恐怖は、私の想像を絶するものなのだろう。
彼は母の死という喪失を受け入れられず、過去の記憶に執着するあまり、現在を生きる自分の身体を壊そうとしていた。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
彼を論破するためでも、自分を封印から守るためでもない。ただ、目の前でひどく傷つき、恐怖に震えている不器用な青年を、慰めたい。
その純粋な願いが胸に満ちた瞬間、私の喉の奥で、歌声が熱を帯びた。
「ユリウス様。どうか、聞いてください」
私が紡ぎ出したのは、なんの変哲もない、ただ静かなメロディ。
洗脳でもなく、魔力による精神支配でもない。ただ聞いた者の心の奥底にある扉を叩き、押し殺していた感情の蓋を開けるだけの歌。
ユリウス様はハッとして顔を上げたが、私の歌声に抗うことはしなかった。
いや、抗えなかったのだ。彼自身が、心の底では救いを求めていたから。
天響の声は、彼の失われた記憶を魔法のように完全に復元するわけではない。
けれど、歌を聴く彼の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……あ、あぁ……」
顔の造作や、正確なメロディは思い出せなくても。
母の手に撫でられた時の温もり。愛おしそうに自分を見つめてくれていたという絶対的な安心感。
『愛されていた』という感情の記憶だけが、彼の胸に確かな熱として蘇っていたのだ。
記憶が薄れても、忘れてしまっても、愛された事実は決して消えない。
それに気づいた彼の身体から、長年彼を縛り付けていた呪いのような強張りが、ふっと抜け落ちていった。
私が歌を終えると、客間には静かな沈黙が降りた。
ユリウス様はローブの袖で乱暴に目元を拭い、何度か深呼吸をして息を整えた。
彼が再び顔を上げた時、その瞳にもう恐怖はなかった。
代わりにあったのは、私の歌声の本質を完璧に見抜いた、魔導師としての鋭く知的な光。
「……なるほど。君の歌は、失ったものを与えるわけでも、記憶を改ざんするわけでもない。ただ、己の中にある答えを引きずり出すだけか」
彼はソファから立ち上がり、フッと小さく笑った。
そこに、もう私を危険物として見下すような響きはなかった。
「洗脳とは程遠い。本人が変わる気がなければ、何の意味も持たない力だ。……こんな厄介で非効率なものを、封印指定にするのは魔導院の恥だな」
「ユリウス様……。それでは」
私が安堵して胸を撫で下ろすと、彼は私の目を真っ直ぐに見据え、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「君を封じるより、君を証明する方が面白そうだ」




