第13話 その子に食べるなと言うなら、私が怒ります
月夜の晩餐会が少しずつ軌道に乗り始めた頃。
私は王宮の回廊で、信じられない光景を目の当たりにして足を止めた。
「まあ、マリアベル。見違えるように美しくなりましたね」
豪奢な柱の陰から聞こえてきたのは、社交界の女王、ヴィクトリア・ラザフォード侯爵夫人の艶やかな声だった。
彼女の視線の先には、マリアベル様と、彼女の母親であるクライン男爵夫人の姿があった。
「顎の線が本当に理想的だわ。ドレスのウエストも、以前よりずっと細くお直ししたのでしょう? 素晴らしい努力です」
「もったいないお言葉ですわ、ヴィクトリア様。この子も、ようやく貴族の令嬢としての自覚を持ちまして。最近は固形物をほとんど口にせず、お水とお茶だけで過ごす日も作っているのですよ」
母親が誇らしげに語る横で、マリアベル様はうつむいたまま、微かに肩を震わせていた。
私は自分の目を疑った。
マリアベル様の姿は、以前私の屋敷で倒れた時よりも、さらにひどくやつれていたからだ。
血の気のない青白い肌、落ち窪んだ瞳。豪華なドレスに着られているというよりは、ドレスの重さに耐えきれず、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。
温室の晩餐会で温かいスープを飲み、少しだけふっくらとした頬を取り戻していた彼女が、再び極限の飢餓状態に引き戻されている。
「ええ、その細さこそが価値なのです。完璧な令嬢に近づきましたね」
ヴィクトリア夫人は、命を削って作られたその痛々しい姿を「理想」と呼び、絶賛していた。
それは、マリアベル様にとって死の宣告に等しい呪いの言葉だ。
私はドレスの裾を強く握りしめた。
私自身が「豚のように太っている」と嘲笑われるのは、もういい。私の価値が低いことは、自分が一番よく分かっているから。
けれど、純粋で優しい彼女が、大人たちの歪んだ見栄と価値観のために、ここまでボロボロにされることだけは、どうしても許せなかった。
その日の午後。
私は先触れも出さずに、クライン男爵家の屋敷の門を叩いた。
「フォンドール伯爵令嬢……? 突然、いかがなさいましたか」
応接室に現れたクライン男爵夫人は、私のふくよかな体型をジロリと見下ろし、明らかな不快感を顔に浮かべた。
王弟殿下の後援がついたとはいえ、ヴィクトリア夫人に心酔している彼女から見れば、私は秩序を乱す目障りな存在なのだろう。
「マリアベル様にお会いしたく、参りました」
「あの子は今、夜会に向けて休ませておりますの。……あなたのような方と親しくしているから、あの子の気が緩むのです。ようやくヴィクトリア様からお褒めの言葉をいただいたというのに」
「休ませている? 倒れるまで食事を抜かせることが、休息ですか」
私の静かな問いかけに、夫人は鼻で笑った。
「美しい令嬢であるためには、当然の我慢です。あなたはご自身のその見苦しい体型を少しは恥じた方がよろしいのではなくて?」
「私の身体のことはどうでもいいのです」
私は夫人を真っ直ぐに見据え、一歩前に出た。
「私が問題にしているのは、マリアベル様のことです。彼女は限界です。あのままでは、身体だけでなく心まで死んでしまいます」
「大袈裟な。少し食事を控えているだけではありませんか。あの子はクライン家の誇りになるのです」
「娘の命を削って得る誇りなど、何の意味があるというのですか!」
私の強い声が、応接室に響き渡った。
夫人は信じられないものを見るように目を見開いた。
「な……っ、親である私に向かって、なんて無礼な……!」
その時、応接室の奥の扉が、ギィッと微かに開いた。
隙間から顔を覗かせたのは、フラフラとした足取りのマリアベル様だった。騒ぎを聞きつけて、自室から降りてきたのだろう。
「マリアベル! 部屋から出てはいけないと言ったでしょう! 夜会まで水以外は口にしてはいけませんよ!」
母親の鋭い叱責に、マリアベル様はビクッと身体を強張らせ、怯えたように壁にすがりついた。
その目には、絶望的なほどの空腹と、母親に嫌われることへの恐怖が浮かんでいる。
自分のためには絶対に怒れない。どんな侮辱も、笑って流してきた。
でも、彼女のためなら、私は本気で怒れる。悪役でもなんでもなってやる。
私は夫人の前に立ちはだかり、マリアベル様を背中で庇うようにして叫んだ。
「その子に食べるなと言うなら、私が怒ります!」
普段は決して声を荒らげない私の剣幕に、夫人は圧倒され、息を呑んで後ずさった。
「あなたは、彼女の美しさを愛しているのではなく、ヴィクトリア夫人に褒められる道具として彼女を扱っているだけです。これ以上、彼女から生きるための食事を奪う権利は、誰にもありません!」
応接室が、水を打ったように静まり返った。
貴族の令嬢としては、あり得ないほどの激しい言葉。完全に社交界の作法を逸脱している。
けれど、私は後悔していなかった。
荒くなった息を整えながら立っていると、背後から、衣擦れの音が微かに聞こえた。
振り返ると、マリアベル様が震える手で、私のドレスの裾を掴んでいた。
「……マリアベル様」
私が優しく声をかけると、彼女はポロポロと大粒の涙をこぼしながら、私の手を両手でぎゅっと握りしめた。
骨と皮だけになってしまった、冷たすぎる指先。
その手は、助けてほしいという声なき叫びそのものだった。




