第12話 若き商会長様、私の歌は売り物ではありません
氷の王弟殿下の紋章が掲げられ、月夜の晩餐会が王都で確固たる地位を築き始めた頃。
私の元に、一人の珍しい客人が訪れた。
「お初にお目に掛かります、フォンドール伯爵令嬢。私はヴェイン商会を束ねております、セドリック・ヴェインと申します」
応接室に現れたのは、仕立ての良い、しかしどこか派手すぎる真紅のフロックコートを着こなした青年だった。
人当たりの良さそうな笑みを浮かべているが、その黄金色の瞳の奥には、値踏みするような鋭い光が宿っている。
セドリック・ヴェイン様。
平民の出でありながら、一代で王都屈指の商会を築き上げた若き成金。彼が動けば王都の金の流れが変わるとまで言われる、商売の天才だ。
そんな彼が、一体なぜ私のような令嬢の元へやってきたのか。
「ご丁寧な挨拶、恐れ入ります。本日はどのようなご用件でしょうか」
「単刀直入に申し上げましょう。リリアン様、貴女のその『月夜の晩餐会』と『世界一美しい歌声』を、我が商会で興行化させてはいただけませんか?」
彼は大仰な身振りで両手を広げ、まるで素晴らしい演目を宣伝する劇団長のような口調で言った。
「王弟殿下の後援がついたとはいえ、慈善事業だけではいずれ資金が底をつきます。そこで、我が商会が全面的に支援いたしましょう。王都で最も大きな劇場を貸し切り、貴族だけでなく裕福な平民からも金を取り、貴女の歌声を披露するのです。……必ずや、莫大な利益を生むと約束しますよ」
彼の言葉に、私は思わず眉をひそめた。
莫大な利益。確かに、今の晩餐会はフォンドール家の持ち出しで運営しており、決して裕福とは言えない伯爵家にとって、資金の余裕があるわけではない。
商会長である彼から見れば、私のやっていることは、ただの『金にならない道楽』に見えるのだろう。
しかし。
「……お申し出はありがたいのですが、お断りいたします」
私は静かに、けれどはっきりと首を振った。
「私の歌は、誰かを楽しませるための見世物ではありません。ましてや、お金を取って売り物にするようなものではないのです」
「おや? それはまた、欲のないことで。しかしリリアン様、人はパンのみにて生きるにあらずと言いますが、パンがなければ人は死にます。貴女の理念は立派ですが、金がなければ、結局のところ誰も救えませんよ?」
セドリック様は、挑発するように唇の端を歪めた。
金以外の価値を信じていない、彼らしい言葉だった。
「ええ、お金は大切です。生きていくためには必要不可欠なものです」
私は彼の言葉を真っ向から否定せず、静かに受け止めた。
「ですが、私が温室に招いているのは、社交界という『自分を売り物にしなければならない場所』で、深く傷ついた方々です。……痩せていなければ価値がない、美しくなければ選ばれない。そんな風に自分を削ってきた彼女たちに、今度は私が『あなたたちの居場所を売って利益を得ます』と言うわけにはいきません」
私の天響の声は、誰かを慰めたい、救いたいと願った時にしか真価を発揮しない。自分の利益や名声のために発動するような、都合のいい魔法ではないのだ。
「月夜の晩餐会は、ただの静かな食卓です。商機をお探しでしたら、どうか他を当たってくださいませ」
私がきっぱりと言い切ると、セドリック様は一瞬だけ、黄金色の瞳を細めて私をじっと見つめた。
怒るでもなく、呆れるでもない。まるで、今まで見たことのない珍しい鉱石を鑑定するかのような、底知れぬ商人の目。
やがて彼は、ふっと肩の力を抜き、いつもの人当たりの良い笑顔に戻った。
「……なるほど。貴女の理念は、よく分かりました。これ以上、無粋な提案は控えましょう。大変失礼いたしました」
彼は深く一礼し、踵を返した。
あまりにもあっさりとした引き際に、私は逆に拍子抜けしてしまったほどだった。
「お帰りですか、セドリック様」
「ええ。商談は不成立ということですから。……しかし、リリアン様。商売の世界には、一つの真理がありましてね」
応接室の扉に手をかけた彼は、肩越しに振り返り、妖しく微笑んだ。
「売れないものほど、値がつくこともある」
その言葉の意味を、私が本当に理解することになるのは、もう少しだけ先のことだった。




