第9話 宮廷魔導師の来訪
アマーリエ・グランツが塔を訪れたのは、それから三日後のことだった。
丘の下に、侯爵家の紋章を掲げた立派な馬車が止まる。ルチアは二階の窓からその様子を見下ろしていた。
馬車から降りてきたのは、燃えるような赤い髪を高く結い上げた女性だった。深紅の魔導師のローブが、陽の光を受けて艶やかに光っている。
(きれいな人……)
背筋をまっすぐに伸ばし、迷いのない足取りで丘を登ってくる。シリルの魔力が染みついたこの丘を、顔色ひとつ変えずに。
それだけで、彼女がただ者ではないことがわかった。
「ルチア」
振り返ると、シリルが廊下に立っていた。
「下りよう。お前も一緒に」
「でも、私がいたら……」
「言っただろう。お前が隠れる理由はひとつもない」
シリルは手を差し出した。ルチアは少しためらってから、その手を取った。
玄関広間で、アマーリエは優雅に一礼した。
「ごきげんよう、ローデンヴァルト卿。お忙しいところ、お時間をいただき感謝いたしますわ」
「魔導院の依頼だそうだな」
「ええ。卿の魔力がこのひと月で劇的に安定したと、院内でも大変な評判ですのよ。その理由を明らかにするのが、わたくしの役目ですわ」
アマーリエはにこやかに微笑み、それからふと、シリルの隣に立つルチアに目を留めた。
琥珀色の瞳が、すっと細められる。
「そちらの方は?」
「ルチアだ。この塔で一緒に暮らしている」
「ルチア……」
アマーリエは小さく首をかしげ、何かを思い出すようにルチアの顔をじっと見つめた。
そして、扇の陰でくすりと笑った。
「もしかして、エインズワース伯爵家の? 魔力をお持ちでないという、あの」
ルチアの体が、こわばった。
欠け者のエインズワース。社交界で、自分がそう呼ばれていることは知っていた。
「家を出されたと聞いていましたけれど、まさかこんなところにいらしたなんて。驚きましたわ」
「アマーリエ嬢」
シリルの声が、冷ややかに響いた。
「用件は、俺の魔力のことだろう。研究室へ案内する」
「あら、失礼いたしました」
アマーリエは軽やかに扇を閉じ、シリルのあとに続いた。
すれ違いざま、ルチアにだけ聞こえるような小さな声で言う。
「使用人の方かしら。お茶をお願いできる?」
ルチアは、何も言い返せなかった。
研究室に茶を運ぶと、アマーリエは机の上に何枚もの紙を広げていた。細かな数字と、複雑な魔法陣の図。
「卿の魔力の波形を、ここひと月分、魔導院の観測器で記録したものですわ」
アマーリエは紙の一枚を指でなぞった。
「ご覧ください。ひと月前の、この日を境に、波形がぴたりと落ち着いています。新しい制御術を編み出されたのかと思いましたが、それにしては変化が急すぎる」
ルチアは、茶器を置く手が震えそうになるのを必死で抑えた。
ひと月前のあの日。ルチアが塔に来た日だ。
「何か、外部の要因があるはずですの。たとえば、特殊な魔導具ですとか……あるいは」
アマーリエの視線が、ちらりとルチアに向けられた。
「人、ですとか」
研究室の空気が、ぴんと張りつめた。
「心当たりはない」
シリルは表情ひとつ変えずに言った。
「それより、観測器の記録を詳しく見せてくれ。参考にしたい」
「まあ、卿がご興味を持ってくださるなんて」
アマーリエはぱっと顔を輝かせ、シリルの隣に椅子を引き寄せた。
二人の肩が触れそうなほど近づく。アマーリエは紙を指さしながら、ルチアには半分も理解できない言葉で何かを熱心に説明し始めた。
シリルも、時折うなずきながら耳を傾けている。
(……お似合い、なのよね)
ルチアはそっと研究室を出た。
扉を閉める直前、アマーリエの澄んだ声が聞こえた。
「卿のような方には、本来、対等に魔力を扱える相手がふさわしいのですわ。いつまでもお一人で抱え込む必要はありませんのよ」
シリルが何と答えたのかは、聞こえなかった。
聞くのが、怖かった。
台所に戻ると、ハロルドが心配そうな顔で待っていた。
「ルチア様、お顔の色が」
「大丈夫です。少し、緊張しただけ」
ルチアは笑ってみせた。うまく笑えているかどうかは、わからなかった。
アマーリエは、シリルと同じ世界の人だ。
魔力を持ち、それを自在に操り、シリルと同じ言葉で語り合える人。
自分は違う。何も持たない。ただ、そばにいるだけで魔力を吸い取る、空っぽの器。
(それでいいって、思っていたのに)
シリルの役に立てるなら、それだけでいい。そう思っていたはずなのに。
研究室で並んで座る二人の姿が、どうしても頭から離れなかった。
夕方、アマーリエは「また参りますわ」と言い残して帰っていった。
馬車に乗り込む前、彼女は一度だけ振り返り、塔の窓辺に立つルチアを見上げた。
その琥珀色の瞳は、少しも笑っていなかった。




