第8話 器ではなく(シリル視点)
ルチアが塔に来て、ひと月が経った。
枯れていた丘の木々に、少しずつ緑が戻り始めている。窓のひびはハロルドが職人を呼んで直させた。もう燭台が勝手に浮くこともない。
塔は、すっかり人の住む家らしくなった。
そして俺は、毎日まともに眠り、まともに食事をとり、まともに研究ができている。
魔導院の連中が目を丸くするのも無理はなかった。
「旦那様。少々、お耳に入れたいことが」
ある朝、ハロルドが神妙な顔で研究室に入ってきた。
ルチアは台所でパンを焼いている。ここのところ、毎朝の日課になっているらしい。
「エインズワース伯爵家のことです」
俺はペンを置いた。
「話せ」
「街の魔導具師のあいだで噂になっております。伯爵家の屋敷で、魔導具が次々と故障していると。魔導灯、暖炉の火種、厨房の冷却箱。修理してもすぐにまた壊れるので、職人たちが気味悪がって寄りつかなくなっているそうです」
「……ひと月前からか」
「ちょうど、ルチア様がこちらへいらした頃から」
俺は窓の外に目をやった。
予想していなかったわけではない。
魔力のある家には、必ず魔力の淀みが生まれる。人が使った魔力の残り滓が、少しずつ屋敷に溜まっていくのだ。普通は大した量ではないが、魔導の名門ともなれば話は別だ。何代にもわたって溜まった淀みは、魔導具を狂わせるほどになる。
エインズワース家の魔導具が今まで一度も故障しなかったのは、その淀みを誰かが吸い取っていたからだ。
魔力を持たない娘が、何年も、何も知らずに。
「伯爵家は、原因に気づいているのか」
「いえ。跡継ぎのテオドール様の魔力が強すぎるせいではないかと、もっぱら噂されているようで」
俺は、思わず口の端を上げた。
「自業自得だな」
「旦那様、お顔が少々怖うございます」
「気のせいだ」
ハロルドは咳払いをして、もう一通の封書を差し出した。
「それと、魔導院からです」
封蝋の紋章を見て、俺は眉をひそめた。
グランツ侯爵家。
中を開けると、几帳面な文字で、近日中に塔を訪問したい旨が書かれていた。差出人は、アマーリエ・グランツ。
「宮廷魔導師の、グランツ嬢ですか」
「俺の魔力が安定した理由を調べたいそうだ。魔導院の正式な依頼として」
アマーリエは魔導院でも指折りの実力者だ。魔力量は俺に次ぐと言われている。そして、ここ数年、俺と組んで研究をしたいと何度も申し出てきた相手でもあった。
断り続けてきたが、正式な依頼となれば無下にはできない。
「……ルチア様のことを、お知らせになりますか」
「隠しきれるとは思っていない」
俺は封書を机の上に放った。
「だが、ルチアを研究の対象にはさせない。それだけは絶対にだ」
昼過ぎ、ルチアが焼きたてのパンを持って研究室に上がってきた。
「シリル、休憩しない? 今日は胡桃を入れてみたの」
盆の上には、香ばしい匂いのするパンと、温かい茶が載っていた。
ルチアは慣れた手つきで机の端に盆を置き、いつもの長椅子に腰かける。
「ハロルドさんに教わって、窯の温度を変えてみたのよ。前より外がぱりっとしてると思うんだけど」
俺はパンをひとつ手に取り、かじった。
「うまい」
「本当?」
ルチアの顔が、ぱっと明るくなった。
ひと月前、この塔に来たばかりの頃の彼女は、ほとんど笑わなかった。何かをするたびに「ごめんなさい」と謝り、褒められると困ったように目を伏せた。
今は違う。
うまいと言えば素直に喜び、焦がしてしまえば悔しそうに唇を尖らせる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「ルチア」
「なあに?」
「近いうちに、魔導院から客が来る。宮廷魔導師のアマーリエ・グランツという女性だ」
ルチアの表情が、わずかに曇った。
「……私のことを、調べに?」
「俺の魔力が安定した理由を知りたいそうだ。だが、お前は何も心配しなくていい。何を言われても、俺が対応する」
ルチアは少し黙ってから、小さくうなずいた。
「わかったわ。邪魔にならないようにしてる」
「邪魔だなんて思うな」
思ったよりも強い声が出た。ルチアがびくりと肩を揺らす。
俺は息を整えて、言い直した。
「ここは、お前の家だ。客が来ようと誰が来ようと、お前が隠れる理由はひとつもない」
ルチアは、目を見開いて俺を見つめていた。
やがてその瞳が、ほんの少しだけ潤んだ。
「……うん」
俺の家だ、とは言わなかった。お前の家だ、と言った。
その違いに、ルチアは気づいただろうか。
器としてではなく。魔力を静めるための道具としてではなく。
ただ、ルチアがここにいてほしい。
いつかその言葉を、まっすぐに伝えられる日が来ることを願いながら、俺は胡桃のパンをもうひとつ手に取った。




