第7話 十年の静けさ(シリル視点)
ルチアが眠っている。
寝台の横の長椅子で、小さく体を丸めて。俺の手を握ったまま、規則正しい寝息を立てている。
俺は眠ったふりをやめて、そっと目を開けた。
窓から差し込む月の光が、ルチアの栗色の髪を淡く照らしていた。
……静かだ。
頭の中が、どこまでも静かだ。
生まれてこのかた、俺の頭の中には常に嵐が吹き荒れていた。耳鳴りのような魔力のうねり。こめかみを内側から叩くような痛み。眠ろうとすればするほど、嵐は大きくなる。
五歳で魔力が溢れ出したとき、医師たちは口を揃えて言った。この子は大人になるまで生きられないかもしれない、と。
それでも俺は生き延びた。
生き延びて、魔力を制御する術を死にものぐるいで身につけて、気がつけば「王国一の大魔導師」などと呼ばれるようになっていた。
だが、どれほど術を磨いても、器の小ささだけは変えられなかった。
溢れ続ける魔力をなだめすかしながら、ただ一日一日をやり過ごす。それが俺の人生だった。
八歳のとき。
両親に連れられて、ある侯爵家の茶会に出た。
魔力の扱いを覚え始めた頃で、両親は息子が人前に出られるようになったことを、少しでも周囲に示したかったのだろう。
だが、人の多さに当てられて、俺の魔力はすぐに暴れ始めた。
庭園の奥の植え込みに逃げ込み、頭を抱えてうずくまった。誰にも見つかりたくなかった。見つかれば、また誰かを傷つける。
そのとき、小さな手が俺の手に触れたのだ。
顔を上げると、栗色の髪の女の子がいた。俺と同じくらいの年で、心配そうに眉を寄せていた。
「いたいの?」
そう聞かれて、何も答えられなかった。
頭の中の嵐が、止んでいたからだ。
生まれて初めて知る静けさだった。音のない世界。痛みのない世界。こんな場所があったのかと、ただ呆然とした。
女の子は、何も言わずに俺の手を握り続けてくれた。
やがて遠くから大人の呼ぶ声がして、女の子は慌てて立ち上がった。俺はとっさに、ポケットに入っていた青い硝子玉を差し出した。母がくれたお守りだった。
それ以外に、渡せるものが何もなかった。
女の子は硝子玉を受け取って、「ありがとう」と笑った。
名前だけは、聞くことができた。
ルチア、と。
あの静けさの理由を、俺は何年もかけて調べた。
魔導書を読み漁り、古い文献をひもとき、魔導院の資料庫に忍び込んだこともある。
そして十五のとき、ようやくひとつの仮説にたどり着いた。
魔力をまったく持たない人間は、他者の魔力を受け止める器になりうるのではないか。
ルチアを探すのは難しくなかった。あの茶会に招かれていた家の中で、ルチアという名の娘がいるのはエインズワース伯爵家だけだった。
そして、そこの長女が魔力を持たない「欠け者」と呼ばれていることも、すぐにわかった。
俺は伯爵家に手紙を書いた。
ご令嬢に一度お会いしたい、と。
返事は、伯爵夫人の名前で届いた。娘は体が弱く療養中のため、どなたともお会いできません、と。
二度目の手紙にも、三度目の手紙にも、同じ返事が来た。
四度目の手紙には、返事すら来なかった。
俺はそれ以上、踏み込むことができなかった。
俺の魔力は人を傷つける。病弱だという娘に無理に会おうとして、もし何かあったら。そう思うと、塔を出る足がすくんだ。
今にして思えば、療養などというのは嘘だったのだろう。
十日前、ルチアは家を出された経緯を、まるで天気の話でもするように語った。弟の経歴に傷がつくから、と。
あのとき、俺の魔力は一瞬で沸き立った。茶器が割れたのは、そのせいだ。
……十年だ。
俺がこの塔で嵐に耐えていた十年、ルチアはあの家で、ひとりで耐えていた。
俺が手紙を書いていた頃、彼女は屋敷の台所で皿を洗っていたのかもしれない。ハロルドから聞いた。ルチアのパンの切り方は、何年も台所に立ってきた者の手つきだと。
月の光の中で、ルチアが小さく身じろぎした。
握った手に、きゅっと力がこもる。
俺は息を殺して、その手を握り返した。
ルチアは、自分のことを「器」だと思っている。
俺がそう説明したのだから、当然だ。魔力を静めるための器。だから大切にされている。だから手を握ってもらえる。
そうではない、と言えたらどんなにいいだろう。
だが、今それを言えば、ルチアはきっと戸惑う。家を追われたばかりの彼女に、ここを離れるという選択肢はない。俺の言葉は、断れない頼みになってしまう。
それだけは、したくなかった。
(ゆっくりでいい)
十年待ったのだ。
ルチアがこの塔を、自分の居場所だと思えるようになるまで。
俺は、いくらでも待てる。
ルチアの寝顔を見つめながら、俺は十年ぶりに、静かな夜の中で目を閉じた。




