第6話 器のつとめ
塔での暮らしが始まって、十日が過ぎた。
わかったことがいくつかある。
ひとつ目は、ルチアが同じ部屋にいれば、シリルの魔力はほとんど暴れないということ。
ふたつ目は、離れれば離れるほど、その効き目は薄れていくということ。塔の一階と三階に分かれていると、時折、廊下の燭台がふわりと浮く。
そしてみっつ目。
手を握っているときが、いちばんよく効く。
「だから、夜はこうするのが一番合理的なんだ」
シリルは真顔でそう言って、毎晩ルチアの手を握ったまま眠りにつく。
最初の数日は椅子で付き添っていたが、ルチアの体を案じたシリルが寝台の横に小さな長椅子を運ばせた。今ではルチアもそこで横になり、二人の手は寝台の縁を越えてつながっている。
(合理的……なのよね、きっと)
自分に言い聞かせながらも、指先から伝わる体温に、ルチアはなかなか慣れることができなかった。
その日、シリルは朝から王宮へ出かける支度をしていた。
「月に一度の、魔導院への報告だ。半日ほどで戻る」
「ひとりで大丈夫?」
ルチアが尋ねると、シリルは少し驚いたように目を瞬いた。
「……心配してくれるのか」
「それは、するわ。王宮で魔力が暴れたら大変でしょう」
「何年もひとりで行っていた。慣れている」
そう言いながら、シリルはルチアの手を取り、しばらく黙って握っていた。
まるで、出かける前に魔力を空にしておこうとするように。
「ありがとう。これで半日は持つ」
手を離したシリルは、外套を羽織って塔を出ていった。
ルチアはその背中を見送りながら、握られていた手をそっと胸に当てた。
シリルのいない塔は、驚くほど静かだった。
ルチアはハロルドの許しを得て、台所で焼き菓子を作ることにした。小麦粉と卵と蜂蜜があれば、簡単なものなら作れる。
「旦那様は甘いものがお好きなのですよ。ご自分ではおっしゃいませんが」
「そうなんですか?」
「ええ。幼い頃は、蜂蜜を塗ったパンばかり召し上がっていました」
ハロルドは懐かしそうに笑った。
「旦那様は五歳で魔力が溢れ出してから、ご両親とも離れて暮らしてこられました。近くにいれば、ご家族を傷つけてしまうからと。……わたくしがお仕えしてきたのは、ずっと寂しいお子様でした」
ルチアは、生地をこねる手を止めた。
「でも、旦那様はご両親を恨んだことは一度もありません。仕方のないことだとおっしゃって。そういうお方なのです」
ハロルドは、それ以上何も言わなかった。
ルチアも、何も言えなかった。
焼き上がった菓子は、少し形がいびつだった。それでも、蜂蜜の香りが台所いっぱいに広がった。
夕方、シリルは予定よりも早く帰ってきた。
玄関の扉が開いた瞬間、塔の空気がざわりと揺れる。廊下の燭台が、いっせいにかたかたと震えた。
「シリル!」
ルチアが駆け寄ると、シリルは壁に手をついて、浅い息を繰り返していた。
「……少し、無理をした」
ルチアは迷わずその手を取った。
揺れが、すうっと静まっていく。
「顔色が悪いわ。何かあったの?」
「魔導院の連中が、しつこくてな」
シリルは目を閉じたまま、低い声で言った。
「最近、俺の魔力が安定していると噂になっているらしい。理由を問いただされた。……答えなかったが」
「答えなかったの?」
「お前のことを、あいつらに話すつもりはない」
きっぱりとした声だった。
「魔力を持たない人間が、魔力を受け止める器になる。そんなことが知れたら、研究させろと言い出す者が必ず出てくる。お前を見世物にする気はない」
(私を……守ってくれたの?)
ルチアの胸が、とくんと鳴った。
けれど、すぐに別の考えが頭をもたげる。
(……器を、取られたくないから?)
シリルにとって、自分は魔力を静めるための大切な器だ。だから手放したくない。それは当然のことで、ルチアが期待するようなことではない。
わかっている。わかっているのに、どうして少しだけ胸が痛むのだろう。
「ルチア?」
「あ、ううん。何でもないの」
ルチアは笑顔をつくって、台所のほうを指さした。
「そうだ、お菓子を焼いたの。ハロルドさんに、シリルは甘いものが好きだって聞いて」
シリルは一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「……ハロルドめ」
「嫌いだった?」
「いや」
シリルは、ほんの少しだけ目を逸らした。
「好きだ」
その夜、食堂のテーブルに並んだいびつな焼き菓子を、シリルはひとつ残らず平らげた。
ハロルドが後ろを向いて肩を震わせているのを、ルチアは見なかったことにした。




