第5話 塔の朝
目を覚ますと、窓の外はすっかり明るくなっていた。
ルチアは椅子に座ったまま、寝台の端に突っ伏して眠っていたらしい。首と背中が、ぎしぎしと痛む。
(いけない、あのまま寝てしまったんだわ)
慌てて顔を上げると、すぐ目の前に紫の瞳があった。
「おはよう」
シリルが、横になったままこちらを見ていた。
つないだ手は、まだそのままだ。
「お、おはよう……! ごめんなさい、私、いつの間にか」
「謝るのは俺のほうだ。椅子で一晩過ごさせてしまった」
シリルはゆっくりと体を起こした。昨夜の青白さが嘘のように、頬に血の色が戻っている。目の下の隈も、心なしか薄くなっていた。
「……よく、眠れた?」
「ああ。夢も見なかった」
そう言って、シリルは自分の手のひらをじっと見つめた。
「朝まで一度も目が覚めなかったのは、記憶にある限り初めてだ」
その声があまりにも静かで、ルチアは胸の奥がぎゅっと詰まるような気がした。
身支度を整えて一階へ下りると、台所でハロルドが朝食の支度をしていた。
「おはようございます、ルチア様。よくお休みに……なれなかったようですね」
ハロルドはルチアの首筋を押さえる仕草を見て、すべてを察したように苦笑した。
「旦那様にお付き合いくださったのでしょう。ありがとうございます」
「いいえ。それより、何かお手伝いさせてください」
「とんでもない。ルチア様はお客様ですから」
「でも、私、ここへは働きに来たんです」
ルチアは袖をまくり上げた。
「何もしないでいるのは、落ち着かなくて。お願いします、ハロルドさん」
しばらく押し問答が続いたが、最後にはハロルドのほうが折れた。
「では、パンを切っていただけますか」
「はい!」
伯爵家では、使用人の手が足りない日にはいつも台所に立っていた。包丁を握るのは慣れている。
手際よくパンを切り分け、ハロルドが焼いた卵を皿に盛りつけていく。ふと見ると、ハロルドが感心したようにこちらを眺めていた。
「どこでそのような手つきを?」
「家で、少しだけ」
ルチアは曖昧に笑ってごまかした。
伯爵令嬢が台所仕事に慣れている理由など、話して楽しいものではない。
朝食のあと、ルチアは塔の掃除に取りかかった。
廊下に散らばった硝子の破片を集め、倒れた燭台を元の位置に戻す。ひびの入った壁は直せないけれど、埃を払うだけでもずいぶん見違えた。
不思議なことに、ルチアが通った場所から、塔の空気が少しずつ澄んでいくようだった。
ハロルドが言うには、シリルの魔力は塔全体に薄く染みついていて、それが物を浮かせたり壊したりしていたのだという。
「ルチア様が歩くたびに、溜まっていた魔力が吸い取られているのでしょう。……廊下の植木が、ほら」
言われて見ると、窓辺に置かれた鉢植えの枯れかけた枝に、小さな緑の芽が顔を出していた。
「まあ……」
「ここ数年、何を植えても育たなかったのですよ」
ハロルドは、目を細めて芽を見つめた。
(私が、いるだけで?)
ルチアは自分の手のひらを見下ろした。
何の変哲もない、少し荒れた手。この手が、誰かの役に立つ日が来るなんて。
昼過ぎ、三階の掃除に上がると、研究室の扉が開いていた。
中では、シリルが机に向かって何か書き物をしている。片付けられた部屋には、昨日の嵐の跡がほとんど残っていなかった。
邪魔をしないように通り過ぎようとしたとき、名前を呼ばれた。
「ルチア」
「あ、ごめんなさい。うるさかった?」
「いや。……ハロルドから聞いた。朝から働き詰めだそうだな」
シリルは椅子から立ち上がり、ルチアの手からはたきを取り上げた。
「そんなことは、しなくていい」
「でも」
「お前を使用人として迎えたわけじゃない」
シリルは研究室の窓際に置かれた、ゆったりとした長椅子を指さした。昨日まではなかったものだ。
「ここに座っていてくれないか。本でも読んで、好きに過ごしてくれればいい。俺の目の届くところにいてくれれば、それだけで魔力が落ち着く」
「それだけでいいの?」
「それだけでいい」
ルチアは少し迷ってから、長椅子に腰を下ろした。
柔らかなクッションが、体をふわりと受け止める。
シリルは書棚から何冊か本を抜き出して、ルチアの膝の上に置いた。花の図鑑、異国の旅行記、子ども向けの物語集。
「どれが好きかわからなかったから、適当に選んだ」
「……ありがとう」
ルチアは旅行記を手に取った。
ページをめくる音と、シリルのペンが紙の上を走る音。それから、窓の外で鳥が鳴く声。
静かな午後だった。
ときどき顔を上げると、シリルと目が合う。彼はそのたびに、何でもないように視線を書き物へ戻した。
(何をすればいいのかしら……)
ただ座っているだけで、本当に役に立っているのだろうか。
そんな不安が、胸の隅でちくりと疼く。
けれど、いつしかその不安も、穏やかな日差しの中に溶けていった。
気がつけば、ルチアは旅行記を胸に抱いたまま、うとうとと眠り込んでいた。
肩に、そっと何かがかけられる感触がした。
薄く目を開けると、自分の上着を脱いだシリルが、ルチアの肩にそれをかけているところだった。
彼は、ルチアが起きたことに気づいていない。
長い指が、ルチアの顔にかかった髪をそっと払う。その手つきは、壊れものに触れるように慎重だった。
(……え?)
ルチアは慌てて目を閉じた。
心臓が、どうしようもなくうるさかった。




