第4話 眠れない魔導師の夜
ルチアに用意されたのは、シリルの私室の隣にある客間だった。
「長らく使っておりませんでしたので、埃っぽくて申し訳ございません。明日にはきちんと整えさせていただきます」
「いいえ、十分です。ありがとうございます、ハロルドさん」
部屋は広く、窓からは丘の向こうに沈んでいく夕日が見えた。寝台には清潔な白い敷布がかけられ、小さな暖炉まである。
伯爵家での自分の部屋よりも、ずっと立派だった。
ハロルドは窓辺に立ち、しばらく外を眺めていた。
「お嬢さん。いえ、ルチア様とお呼びしましょう」
「様だなんて、そんな」
「いいえ。旦那様の大切なお客様ですから」
老執事は振り返り、目尻にしわを寄せて微笑んだ。
「この塔がこれほど静かなのは、何年ぶりでしょうか。廊下の燭台が、ひとつも浮いておりません。……旦那様があんなお顔をなさるのも、本当に久しぶりに見ました」
その声が少しだけ湿っているように聞こえて、ルチアは何も言えなかった。
「どうか、旦那様をよろしくお願いいたします」
ハロルドは深く一礼して、部屋を出ていった。
夜が更けた。
寝台に入ったものの、ルチアはなかなか眠れなかった。
昨日の今頃は、伯爵家の屋根裏部屋で荷物を詰めていた。たった一日で、何もかもが変わってしまった。
(夢じゃ、ないのよね)
枕元に置いた青い硝子玉を、指先でそっと転がす。
十年前にもらった硝子玉の持ち主が、今は壁一枚隔てた向こうにいる。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「……ルチア。起きているか」
シリルの声だった。
ルチアは慌てて肩掛けを羽織り、扉を開けた。
廊下に立つシリルは、昼間よりもさらに顔色が悪かった。目の下には濃い隈が浮かび、銀色の髪がわずかに乱れている。その周りで、空気がかすかにゆらいでいた。
「シリル、大丈夫?」
「すまない。夜中に女性の部屋を訪ねるなど、非常識なのはわかっている」
彼は額に手を当てて、苦しげに目を伏せた。
「横になると、魔力がひどく騒ぐんだ。昼間よりもずっと。ここ数日は、ほとんど眠れていない」
「数日も?」
「もう慣れた。……と言いたいところだが」
シリルは自嘲するように小さく笑った。
「今夜は、お前がすぐそこにいると思うと、どうしても我慢がきかなかった。眠るまででいい。そばにいてくれないか」
断るという選択肢は、ルチアの頭に浮かびもしなかった。
シリルの私室は、思っていたよりも簡素だった。
大きな寝台と、本の積まれた机。壁際の棚には魔導具らしきものがいくつか並んでいるが、どれも傷だらけだ。きっと、何度も魔力の暴走に巻き込まれてきたのだろう。
シリルが寝台に横たわり、ルチアはその傍らに椅子を引き寄せて座った。
差し出された手を、そっと握る。
ゆらいでいた空気が、静かに凪いでいった。
「……ああ」
シリルが、深く息を吐いた。
「静かだ」
「頭は痛くない?」
「痛くない。何年ぶりだろうな、こんなのは」
紫の瞳が、ぼんやりと天井を見つめている。
「ルチア」
「なあに」
「あの日、どうして俺の手を握った?」
ルチアは少し考えてから、正直に答えた。
「苦しそうだったから。それだけよ。どうにかしてあげたかったけど、私には何もできなくて……だから、手を握ることしかできなかったの」
「何もできなかった、か」
シリルの口元が、ふっと緩んだ。
「あのとき、俺は生まれて初めて、頭の中が静かになったんだ。お前は知らないだろうが」
「……え?」
「十年、ずっと考えていた。あれは何だったのか。もう一度、あの静けさに会えるのか」
まぶたが、ゆっくりと重たげに下りていく。
「会えて、よかった……」
最後の言葉は、ほとんど寝息に溶けていた。
握った手から、力が抜ける。それでもルチアは、その手を離さなかった。
(十年も……)
自分が欠け者と呼ばれていた十年間、この人もまた、たったひとりで苦しんでいたのだ。
そして、あの日の小さな出来事を、ずっと覚えていてくれた。
シリルの寝顔は、昼間の張りつめた表情が嘘のように穏やかだった。
ルチアは椅子に座ったまま、窓の外の月を見上げた。
生まれて初めて、ここにいていいのだと思えた夜だった。
同じ頃。
エインズワース伯爵家の大広間で、魔導灯がひとつ、ぱちりと音を立てて消えた。
夜番の使用人が首をかしげて近づくと、隣の灯りがじじ、と不穏な音を立てて明滅する。その隣も、そのまた隣も。
「奥様、広間の灯りが……」
報告を受けたベアトリスは、寝室の扉越しに面倒そうな声を返した。
「古くなっただけでしょう。明日、魔導具師を呼べばいいわ」
使用人は頭を下げて引き下がった。
誰も気づいていなかった。
この屋敷の魔導具がこれまで一度も故障しなかったのは、なぜだったのか。
そして、それが昨日を境に、もう二度と戻らないのだということも。




