第10話 空っぽの器
アマーリエは、その後も三日おきに塔を訪れるようになった。
魔導院の依頼という名目がある以上、シリルも追い返すことができない。研究室で観測器を広げ、何時間も二人で話し込んでいく。
ルチアは、そのあいだ一階で過ごすことが多くなった。
「ルチア様、研究室へ上がられないのですか」
「今日は、お庭の手入れをしようと思って」
ハロルドに尋ねられるたびに、ルチアは何かしら理由をつくった。
丘の木々には、すっかり緑が戻っていた。塔の裏手の小さな庭には、ルチアが植えた香草が芽を出している。
土をいじっているあいだは、余計なことを考えずに済んだ。
けれど、その日。
ルチアが庭の隅で雑草を抜いていると、背後から足音が近づいてきた。
「こんなところにいらしたのね」
振り返ると、アマーリエが立っていた。深紅のローブの裾を、土で汚さないように持ち上げている。
「グランツ様……シリルは?」
「魔導院から急ぎの使いが来て、少し席を外されたわ。ちょうどいい機会だから、あなたとお話ししたくて」
アマーリエは庭を見回し、それからルチアに向き直った。
「単刀直入に言うわね。卿の魔力を安定させているのは、あなたでしょう?」
ルチアは、息を呑んだ。
「隠しても無駄よ。観測器の記録を時刻ごとに分けて調べたの。卿の魔力が乱れるのは、決まってあなたが塔を離れている時間帯だった。市場へ買い出しに行った日、庭の奥で作業していた日。……わかりやすいくらいにね」
アマーリエは、ゆっくりとルチアに歩み寄った。
「魔力を持たない人間が、他者の魔力を吸い取る。面白い現象だわ。魔導院の歴史でも、記録はほとんど残っていない」
「……それを、どうするつもりですか」
「どうもしないわ。今のところは」
アマーリエは、意味ありげに微笑んだ。
「でも、あなたもわかっているでしょう? あなたは、卿にとって便利な道具にすぎないの」
その言葉は、ルチアがずっと胸の奥に押し込めていたものを、正確に言い当てていた。
「卿の魔力の問題は、いずれ研究で解決できるわ。わたくしと卿が組めば、器を外から補う方法も見つかるはず。そうなれば、あなたはもう必要ない」
「…………」
「それに」
アマーリエは声を落とした。
「魔導院の中には、あなたのような存在を、正式に研究対象として保護すべきだという意見もあるの。卿があなたを塔に囲っていると知れたら、どう思われるかしらね。国一番の大魔導師が、貴重な研究対象を私物化している……なんて」
ルチアの顔から、血の気が引いた。
「シリルは、そんなつもりじゃ……!」
「あなたがどう思うかは関係ないのよ。周りがどう見るか、なの」
アマーリエは扇を開いて、口元を隠した。
「卿は、この国の宝よ。こんなところで、あなたひとりのために評判を落としていい方じゃない。……あなただって、卿の足を引っ張りたくはないでしょう?」
そう言い残して、アマーリエは踵を返した。
ローブの裾が、香草の若い葉を踏みつけていった。
その夜、ルチアはなかなか寝つけなかった。
寝台の横の長椅子で、いつものようにシリルの手を握っている。シリルはもう眠っていて、穏やかな寝息が聞こえていた。
(便利な道具にすぎない)
アマーリエの言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
わかっている。最初から、わかっていたことだ。
シリルは、器としてのルチアを必要としている。魔力を静めるために。眠るために。研究を続けるために。
それ以上のことを、望んではいけない。
でも。
焼き菓子をひとつ残らず食べてくれたこと。うたた寝した肩に上着をかけてくれたこと。「ここはお前の家だ」と言ってくれたこと。
あれも全部、器を手放さないためだったのだろうか。
(……違う、と思いたい)
思いたいけれど、確かめる勇気がない。
もし、そうだと言われたら。
ルチアは、つないだ手にそっと力を込めた。
シリルの指が、眠ったまま、かすかに握り返してくる。
それだけで泣きそうになる自分が、ひどく情けなかった。
もうひとつ、胸に引っかかっていることがあった。
研究対象を私物化している。もしそんな噂が立ったら、シリルはどうなるのだろう。
国一番の大魔導師。魔導院でも、王宮でも、誰もが一目置く人。
その人が、自分のせいで立場を悪くするかもしれない。
(それだけは、嫌)
ルチアは、闇の中でじっと天井を見つめた。
窓の外では、細い月が雲に隠れようとしていた。




