第2話 塔の扉
翌朝、ルチアは誰にも見送られずに屋敷を出た。
乗合馬車を二つ乗り継ぎ、王都の外れで降りたのは昼過ぎのことだった。そこから先は、石ころだらけの細い道を歩いていくしかない。
鞄の持ち手が、手のひらに食い込む。
(思ったより、遠いのね)
息を整えながら丘を登りきると、視界の先にそれは現れた。
灰色の石を積み上げた、細く高い塔。
まわりの木々はどれも葉を落とし、まるで冬のように枯れている。季節はまだ初夏のはずなのに。塔の窓硝子にはいくつもひびが入り、壁には焦げたような黒い筋が走っていた。
「……ここで、合っているのよね」
思わず独り言がこぼれる。
近づくにつれて、空気がぴりぴりと震えているのがわかった。肌を刺すような、それでいて目には見えない何か。
けれど、不思議と怖くはなかった。
重そうな木の扉の前に立ち、ルチアは真鍮のノッカーを三度鳴らした。
しばらくして、扉がきしみながら開く。
「どちら様でしょう」
現れたのは、白髪をきちんと撫でつけた老人だった。背筋はまっすぐに伸び、黒い燕尾服には皺ひとつない。
「突然申し訳ありません。街の掲示板で、使用人を募集しているという張り紙を見て参りました」
老人の灰色の眉が、ぴくりと上がった。
「張り紙を……? あれを見て、わざわざ」
「はい。ルチアと申します。掃除も洗濯も、ひととおりのことはできます」
家名は名乗れない。名乗るなと言われたのだから。
老人はしばらくルチアを見つめていた。その視線が、彼女の顔から足元まで、確かめるようにゆっくりと動く。
「わたくしはこの塔の執事、ハロルドと申します。お嬢さん、ひとつお尋ねしても?」
「はい」
「ここまで来る途中、気分が悪くなったり、頭が痛んだりはしませんでしたか」
「いいえ、特には」
「……ほう」
ハロルドは低くつぶやいた。
「正直に申し上げましょう。この塔の主は、たいへん強い魔力をお持ちです。その魔力が時折、主ご自身にも抑えきれずに溢れ出す。並の者はこの丘を登るだけで目眩を起こし、塔の中に入れば三日と持たずに倒れてしまうのです」
それで使用人が辞めていくのかと、ルチアは納得した。
「それでも、と言うのでしたら」
「お願いします」
迷わず答えたルチアに、ハロルドは目を細めた。
「では、どうぞ中へ」
塔の中は、外から見るよりもずっと荒れていた。
玄関広間の壁には大きな亀裂が走り、床には割れた花瓶の破片が散らばっている。天井近くでは、燭台がひとりでにゆらゆらと浮かんでいた。
「あれは……」
「主の魔力に当てられて、物が勝手に動くのです。ご心配なく、落ちてはきません。たいていは」
「たいていは」
「たいていは」
真顔で繰り返すハロルドに、ルチアは思わず小さく笑ってしまった。
笑ったのは、いつ以来だろう。
階段を上りながら、ハロルドは塔の中を説明してくれた。一階は台所と食堂、二階は書庫、三階から上が主の研究室と私室。使用人は今、ハロルドひとりきりだという。
「この数か月で、七人が辞めました」
「七人も」
「皆、よく働いてくれましたがね。体がついていかないのです。わたくしは古くから仕えておりますので、多少は慣れておりますが……」
そのときだった。
頭上で、何かが砕けるような轟音が響いた。
塔全体がびりびりと震え、浮かんでいた燭台が一斉に壁へ叩きつけられる。窓硝子が一枚、甲高い音を立てて割れた。
「旦那様……!」
ハロルドの顔色が変わった。老人とは思えない速さで階段を駆け上がっていく。
ルチアも、考えるより先にその後を追っていた。
三階の廊下は、空気そのものが渦を巻いているようだった。目に見えない風が髪をかき乱し、壁にかかった額縁ががたがたと揺れる。
ハロルドが突き当たりの扉に手をかけ、顔をしかめて膝をついた。
「くっ……近寄れん……」
「ハロルドさん!」
「お嬢さん、下がっていなさい。これ以上は危ない」
けれど、ルチアの体には何も起きていなかった。
髪は乱れるし、風の音もうるさい。でも、頭が痛むことも、息が苦しくなることもない。
(どうして……?)
ルチアはハロルドの横を通り過ぎ、扉を押し開けた。
部屋の中は、嵐のあとのようだった。
書棚は倒れ、本や紙が宙を舞い、机の上の器具が青白い火花を散らしている。その中心に、ひとりの青年がうずくまっていた。
月の光を溶かしたような銀髪。床についた手は白く、細かく震えている。
苦しげに頭を抱えるその姿が、十年前の植え込みの陰の男の子と重なった。
「……っ、来るな……」
青年がかすれた声で言った。
「出ていけ。近づけば、お前まで……」
ルチアは答えなかった。
舞い散る紙をかき分けて、まっすぐに彼のもとへ歩いていく。
そして、あの日と同じように、その手を握った。
ひんやりとした手だった。
その瞬間――部屋を荒れ狂っていた風が、ふっと止んだ。
宙を舞っていた紙が、はらはらと床に落ちていく。火花を散らしていた器具が静まり、震えていた窓が音をなくした。
嘘のような静けさの中で、青年がゆっくりと顔を上げた。
紫の瞳が、ルチアを映す。
信じられないものを見るように、何度もまばたきをして。
「……ルチア?」
十年ぶりに呼ばれた自分の名前は、ひどくかすれていた。




