第1話 欠け者の娘
エインズワース伯爵家の大広間には、朝から魔導灯の白い光が満ちていた。
磨き上げられた床に、招かれた貴族たちの影がいくつも揺れている。誰もが上等な衣装に身を包み、広間の中央に据えられた台座を見つめていた。
台座の上には、人の頭ほどもある透明な水晶球が置かれている。
魔力を測るための、エインズワース家の家宝だ。
ルチアは広間の一番端、柱の陰に立っていた。
くすんだ灰色のドレスは、三年前に仕立てたものだ。袖が少し短くなっているのを、手首を組んでごまかしている。
(大丈夫。誰も、私のことなんて見ていない)
それは慰めでもあり、事実でもあった。
今日の主役は、異母弟のテオドールだ。十六歳になった彼が正式に家の跡継ぎとして認められる、その儀式の日なのだから。
「テオドール、前へ」
父の低い声が広間に響いた。
金の髪をきっちりと撫でつけたテオドールが、胸を張って台座の前に進み出る。その後ろで、継母のベアトリスが誇らしげに扇を揺らしていた。
テオドールが水晶球に手をかざす。
次の瞬間、水晶の中に青い光が渦を巻いた。光は見る間に膨らみ、広間の隅々まで照らし出していく。
「おお……!」
「さすがはエインズワースの嫡男だ」
「これほどの魔力は、宮廷魔導師にもそうはいないでしょう」
拍手と賞賛の声が、波のように押し寄せた。
ルチアも、手を叩いた。
弟の才能は本物だ。それは素直にすごいと思う。
ただ、青い光を見つめていると、胸の奥がしんと冷えていくのを止められなかった。
十年前、同じ台座の前に立ったのはルチアだった。
八歳の小さな手を水晶にかざして、どれだけ待っても、そこには何も灯らなかった。
光の欠片ひとつ、揺らぎひとつ。
あの日から、ルチアは「欠け者」になった。
魔導の名門に生まれながら、魔力を一滴も持たない娘。家の恥。その頃にはもう実母も亡く、かばってくれる人は誰もいなかった。
(……昔のことだわ)
ルチアは小さく息を吐いて、拍手を続けた。
儀式が終わると、広間は祝いの宴へと変わった。
ルチアに声をかける者はいない。給仕の手が足りないと見れば皿を運び、こぼれた葡萄酒があれば布で拭った。使用人たちは慣れたもので、令嬢が働いていても誰も驚かない。
ふと、広間の奥の魔導灯がちらりと揺れた気がした。
ルチアは首をかしげて、灯りの下を通り過ぎる。揺れはすぐに収まった。
(気のせいね)
夜も更けて客が帰ったあと、ルチアは父の書斎に呼ばれた。
重い扉を開けると、机の向こうに父が座り、その傍らにベアトリスが立っていた。
「座りなさい」
言われるままに椅子に腰かける。父は書類から目を上げないまま言った。
「今日をもって、テオドールが正式にこの家の跡継ぎとなった」
「はい。おめでとうございます」
「そこでだ」
父がようやく顔を上げた。ルチアと同じ栗色の瞳には、何の温度もなかった。
「お前には、この家を出てもらう」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「……出る、とは」
「言葉どおりよ」
答えたのはベアトリスだった。扇で口元を隠しながら、目だけで笑っている。
「跡継ぎが決まった今、魔力のない娘を置いておく理由はもうないの。縁談も来ない、魔導の役にも立たない。正直に言って、テオドールの経歴に傷がつくのよ。『欠け者の姉がいる』なんて噂されたら困るでしょう?」
「明朝までに荷をまとめろ」
父は引き出しから小さな革袋を取り出し、机の上に置いた。中で硬貨がかすかに鳴る。
「当座の金だ。以後、エインズワースの名は名乗るな」
それきり、父は再び書類に目を落とした。
話は終わったのだと、ルチアにもわかった。
「……長い間、お世話になりました」
声が震えなかったことを、自分でも不思議に思った。
革袋を手に立ち上がり、一礼して書斎を出る。扉が閉まる直前、ベアトリスの笑い声が小さく聞こえた。
屋根裏に近い自室で、ルチアは古い鞄に荷物を詰めた。
着替えが三着。母の形見の櫛。それから、小箱にしまってある青い硝子玉。
手のひらに載せると、硝子玉は蝋燭の光を受けてかすかに光った。
(シリル……)
十年前、ある貴族の庭園で開かれた茶会。大人たちから隠れるように植え込みの陰にうずくまっていた、銀髪の男の子がいた。
苦しそうに頭を抱えていたその子の手を、ルチアはわけもわからず握ったのだ。
しばらくして顔を上げた男の子は、驚いたようにルチアを見つめ、ポケットからこの硝子玉を取り出してくれた。
会ったのは、それきりだった。
その男の子が今、王国一の大魔導師シリル・ローデンヴァルトと呼ばれていることを、ルチアは知っている。
そして、その大魔導師が住む王都外れの塔で、使用人が次々と辞めていることも。
先週、街の掲示板で見かけた張り紙を思い出す。
――塔の使用人を求む。住み込み。給金は応相談。
張り紙はもう何か月も貼られたままで、端が黄ばんでいた。
(私のことなんて、覚えていないでしょうけれど)
それでも、行くあてはほかにない。
魔力のない自分でも、掃除や洗濯ならできる。働かせてもらえるなら、どこへでも行く。
ルチアは硝子玉を握りしめ、鞄の一番奥にそっとしまった。




