第15話 欠け者が支えていたもの
沈黙を破ったのは、テオドールだった。
「……どういうことなんですか」
椅子から立ち上がった弟は、すがるような目でシリルを見ていた。
「ローデンヴァルト卿。姉上が戻ってきたら、屋敷の魔導具が静まった。卿が来たら、また壊れた。そして姉上が卿の手を握ったら、全部止まった。……姉上は、いったい何なんですか」
シリルは、しばらくテオドールを見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「魔力のある家には、必ず魔力の淀みが溜まる。人が使った魔力の残り滓だ。魔導の名門ともなれば、何代にもわたって溜まった淀みは魔導具を狂わせるほどになる」
シリルは、天井の砕けた魔導灯を見上げた。
「この屋敷の魔導具が今まで一度も壊れなかったのは、その淀みを誰かが吸い取っていたからだ。魔力を持たないルチアの体は、他者の魔力を受け止めて静かに溶かす。彼女はこの屋敷で暮らしているだけで、何年も、何も知らずに、この家を守っていた」
広間に、息を呑む音が広がった。
「お前の魔力が強すぎるせいでは、なかったのですね」
古参の使用人のひとりが、ぽつりとつぶやいた。
テオドールが、呆然とルチアを見た。
「姉上が……ずっと?」
ルチアは、何も言えなかった。
自分でも知らなかったのだ。欠け者と呼ばれ、役立たずと言われ、ただこの家の隅で息をひそめていただけの日々が、そんな意味を持っていたなんて。
「だったら!」
ベアトリスが、叫ぶように言った。
「だったら、なおさらルチアはこの家にいるべきでしょう! エインズワースの娘なのだから、エインズワースのために役に立つのは当然よ!」
「……お母様」
ルチアは、自分でも驚くほど静かな声で言った。
シリルの手を、ぎゅっと握る。その温度が、背中を押してくれる気がした。
「私は、もうこの家の娘ではありません。名乗るなと言われたのは、お父様です」
ベアトリスが、目を見開いた。
「欠け者だから追い出して、役に立つとわかったから閉じ込める。私は、そういう家には戻りません」
十年間、一度も言えなかった言葉だった。
言ってしまえば、案外あっけなかった。
「ル、ルチア……」
伯爵が、初めて動揺したように娘の名を呼んだ。
けれど、ルチアはもう、その声に振り返らなかった。
「伯爵」
シリルが、冷ややかに告げた。
「この件は、魔導院と王宮に正式に報告させてもらう」
「な……っ」
「家名を取り上げた女性を、虚偽の手紙で呼び戻し、外から鍵をかけて屋根裏に閉じ込めた。これは監禁だ。それに、過去に俺の面会の申し出を、虚偽の理由で退け続けた件もある。魔導院の筆頭魔導師に対する虚偽の回答だ。記録は、すべて塔に残してある」
ベアトリスの顔が、紙のように白くなった。
「それから、もうひとつ教えておこう」
シリルは、砕けた魔導灯の破片を見下ろした。
「この屋敷に溜まった淀みは、もう誰にも吸い取れない。魔導院の浄化師を呼べば払えるが、何代分も溜まったものだ。費用は、伯爵家の年収の数年分は下らないだろう」
「そんな……」
「払わなければ、魔導具は壊れ続ける。いずれ屋敷の結界も保てなくなる。魔導の名門を名乗るのは、難しくなるだろうな」
伯爵が、がくりと膝をついた。
ベアトリスは何か言い返そうと口を開いたが、声にならなかった。
テオドールだけが、まっすぐにルチアを見ていた。
「……姉上」
弟の声は、ひどく小さかった。
「僕は、何も知らなかった。姉上のこと、ずっと……見下してた」
ルチアは、弟の顔をじっと見つめた。
憎んでいるわけではなかった。でも、許せるかと問われれば、まだわからなかった。
「テオドール。あなたの魔力は本物よ。だから、これからは自分の力で、この家を支えて」
それだけ言って、ルチアは弟に背を向けた。
屋敷を出ると、空はすっかり晴れていた。
夕暮れの赤い光が、門の前の石畳を照らしている。膝を折っていた馬は、いつの間にか立ち上がって、のんびりと草を食んでいた。
シリルが、ふっと息を吐いた。
「……馬車を呼ぶべきだったな」
「ここまで、馬で来たの?」
「走らせたほうが早かった」
そう言って、シリルはルチアの手を見下ろした。
門を出てからも、二人の手はつながったままだった。
「ルチア。グランツ嬢のことだが」
ルチアの肩が、こわばった。
「お前を脅した件は、魔導院に報告した。彼女は俺の研究からは外される。……二度と、お前の前には現れない」
「脅されたなんて、そんな」
「脅しだ」
シリルは、きっぱりと言った。
「お前の弱いところにつけ込んで、俺のためだと言って、お前を追い出した。それを脅しと言わずに何と言う」
ルチアは、何も言い返せなかった。
確かに、アマーリエの言葉はルチアの一番柔らかいところを刺した。便利な道具にすぎない、と。
その言葉を、ルチアは否定できなかったのだ。
「ルチア」
シリルが、足を止めた。
「塔に帰ったら、話したいことがある。……聞いてくれるか」
夕陽を背にしたシリルの表情は、逆光でよく見えなかった。
けれど、握った手が、かすかに震えている気がした。
「……うん」
ルチアは、小さくうなずいた。




