第14話 屋根裏の扉
屋根裏の部屋は、ルチアが出ていったときのまま残されていた。
小さな寝台と、古びた机。窓は小さく、西日がわずかに差し込むだけ。
ルチアは寝台の端に腰かけて、膝の上で両手を握りしめていた。
(これで、よかったのよ)
何度目かわからない言葉を、心の中で繰り返す。
自分がここにいれば、伯爵家はシリルを訴えない。アマーリエが言っていた噂も、ルチアが塔を出たとなれば立ち消えになるだろう。
シリルは、また眠れなくなるかもしれない。でも、彼にはアマーリエがいる。魔導院もある。きっと、新しい方法を見つけてくれる。
自分がいなくても、大丈夫。
そう思うのに、手のひらが寂しくて仕方なかった。
毎晩握っていた、ひんやりとした大きな手。眠ったまま、かすかに握り返してくる指。
(……会いたい)
口に出してしまえば、もう耐えられなくなる気がした。
ルチアは鞄の奥から、青い硝子玉を取り出した。
西日を受けて、硝子玉が淡く光る。
そのとき、階下でぱりん、と何かが割れる音がした。
続けて、もうひとつ。さらにもうひとつ。
屋敷じゅうの魔導灯が、次々と砕けていく音だった。
「何……?」
ルチアは窓に駆け寄った。
空が、おかしかった。
さっきまで晴れていたはずの空に、王都のほうから黒い雲が渦を巻いて迫ってくる。雷鳴のような低い唸りが、地面の底から響いてきた。
屋敷の門の前で、一頭の馬が膝を折った。
その背から、ひとりの青年が転げ落ちるように降り立つ。
銀色の髪が、嵐の風に激しく煽られていた。
「シリル……!」
階下が、騒然となった。
使用人たちの悲鳴。物が倒れる音。ベアトリスの金切り声。
「誰か、あの男を止めなさい! ここは伯爵家よ、勝手に……っ」
声が、途中で途切れた。
階段を上ってくる足音が聞こえる。一段ごとに、壁がびりびりと震えた。
ルチアは扉に駆け寄り、拳で叩いた。
「シリル! ここよ!」
足音が止まった。
「ルチア」
扉越しに聞こえた声は、ひどくかすれていた。
「下がっていろ」
次の瞬間、錠前が内側から弾け飛んだ。
扉が開き、そこにシリルが立っていた。
ルチアは、息を呑んだ。
シリルの顔は紙のように白く、額には汗が滲んでいる。肩で荒く息をして、片手を壁について、かろうじて体を支えていた。その周りで、空気が目に見えるほど激しく渦巻いている。
ルチアは、考えるより先に駆け寄った。
両手で、シリルの手を握りしめる。
嵐が、止んだ。
屋敷じゅうに響いていた唸りが、すうっと消えていく。窓の外の黒い雲が、ほどけるように薄れていった。
シリルの膝が崩れ、ルチアは慌ててその体を支えた。重い。けれど、離すつもりはなかった。
「どうして……どうして来たの」
声が震えた。
「シリルの迷惑になるから、私、帰ってきたのに。伯爵家が訴えるって……グランツ様も、私がいたらシリルの名前に傷がつくって……」
「そんなもの、どうでもいい」
シリルは、ルチアの肩に額を押しつけた。
「名前に傷がつこうが、何を噂されようが、どうでもいい。お前がいないほうが、よほど困る」
「でも」
「ルチア」
顔を上げたシリルの紫の瞳が、まっすぐにルチアを捉えた。
「帰ろう。俺たちの家に」
涙が、あふれて止まらなかった。
大広間に下りると、伯爵家の人々が待ち構えていた。
父のエインズワース伯爵は、蒼白な顔で広間の中央に立っていた。その後ろでベアトリスが、乱れた髪を押さえながら震えている。テオドールは壁際の椅子に座り込んだまま、怯えたようにシリルを見ていた。
「ローデンヴァルト卿」
伯爵が、かすれた声で言った。
「いかに卿といえど、これは許されぬことですぞ。他家に押し入り、娘を連れ去ろうなど……」
「娘?」
シリルは、ルチアの手を握ったまま、静かに伯爵を見返した。
「ひと月半前、彼女を家から追い出し、エインズワースの名を名乗るなと言ったのは、あなたではなかったか」
伯爵が、言葉に詰まった。
「家名を取り上げ、身ひとつで放り出した。それを今さら娘と呼び、俺をかどわかしで訴えるという。……ずいぶんと都合のいい話だな」
「そ、それは……」
「それに、エインズワース伯爵夫人」
シリルの視線が、ベアトリスに向けられた。
継母の肩が、びくりと跳ねる。
「五年前、俺はこの家に四度、手紙を送った。ご令嬢に一度お会いしたい、と」
ルチアは、思わずシリルの横顔を見上げた。
(手紙……? 私に?)
知らない。そんな話は、一度も聞いたことがなかった。
「返事は三度。すべてあなたの名前で、娘は病弱で療養中だから会わせられない、と。四度目には返事すらなかった」
シリルは、低い声で続けた。
「ルチアは、療養などしていなかった。この屋敷で、使用人のように働かされていた。……違うか」
ベアトリスは、何も答えなかった。
広間に、重い沈黙が落ちた。




