第13話 嵐の塔(シリル視点)
目を覚ましたとき、手の中が空っぽだった。
それだけで、頭の中に嵐が戻ってきた。
こめかみを内側から殴られるような痛み。耳の奥で唸る魔力のうねり。ひと月半のあいだ忘れかけていた感覚が、一気に押し寄せてくる。
「ルチア……?」
寝台の横の長椅子には、誰もいなかった。
毛布がきちんと畳まれている。まるで、最初から誰もいなかったかのように。
俺は寝台から転がり出て、隣の部屋の扉を開けた。
衣装棚には、俺が用意したドレスがすべて残っていた。そして机の上に、一枚の紙が置かれていた。
――家に帰ることにしました。
その一行を読んだ瞬間、窓の硝子が音を立てて砕けた。
「旦那様!」
階段を駆け上がってきたハロルドが、部屋の入り口で膝をついた。俺の魔力に当てられて、立っていられないのだ。
わかっていても、止められなかった。
「ハロルド。ルチアはどこだ」
「エインズワース家に……お戻りになりました。夜明け前に」
「なぜ止めなかった」
「ルチア様が、ご自分で決められたことでしたので」
ハロルドは苦しげに顔を歪めながら、懐から一通の封書を取り出した。
「旦那様、これを。昨日、ルチア様宛てに届いたものです」
伯爵家の紋章。ベアトリス・エインズワースの署名。
目を通すうちに、指先が冷たくなっていった。
娘のかどわかしで訴える。
テオドールのために、もう一度家で過ごしてもらう必要がある。
「……あいつら」
声が、自分のものとは思えないほど低かった。
塔全体が、みしりと軋んだ。壁の亀裂が広がり、天井から細かな石の粉が降ってくる。
「それから、もうひとつ」
ハロルドは、床に手をついたまま顔を上げた。
「数日前、ルチア様が庭でグランツ様と話しておられるのを見ました。何を言われたのかは聞こえませんでしたが……あれ以来、ルチア様は研究室に上がってこられなくなった」
俺は、目を閉じた。
ルチアがここ数日、何かを隠すように笑っていたこと。庭で顔色を悪くしていたこと。気づいていたのに、問いただせなかった。
また俺は、踏み込むのが遅すぎた。
そのとき、丘の下に馬車の音が響いた。
窓から見下ろすと、侯爵家の紋章を掲げた馬車が止まっていた。今日は、グランツ嬢が訪問する予定の日だ。
俺は階段を下りた。
一段ごとに、廊下の燭台が弾け飛ぶ。玄関広間に着く頃には、床の石畳にまで亀裂が走っていた。
扉を開けたアマーリエは、一歩踏み込んだところで、顔色を変えて立ち止まった。
「ロ、ローデンヴァルト卿……これは、いったい」
「グランツ嬢」
俺は、彼女の前に立った。
「ルチアに、何を言った」
アマーリエの肩が、びくりと震えた。
「何を、と申されましても……」
「エインズワース家に、ルチアの居場所を知らせたのはお前か」
「わ、わたくしは、ただ伯爵夫人に、ご令嬢がご無事だとお伝えしただけで……」
「ルチアに、何を言った」
同じ問いを繰り返すと、アマーリエの膝が崩れた。俺の魔力に当てられて、立っていられなくなったのだ。
国内で俺に次ぐと言われる魔導師が、床に手をついて喘いでいる。
「……卿のためだと、思ったのです」
アマーリエは、震える声で言った。
「あの方がいては、卿は研究対象を私物化していると噂される。卿の名に傷がつく。だから、身を引くべきだと……」
「それで、ルチアは俺のために出ていったのか」
アマーリエは答えなかった。答えられなかったのだろう。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
怒りで魔力がさらに膨れ上がるのを、歯を食いしばって押さえ込む。ここでこの女を傷つけても、ルチアは戻ってこない。
「グランツ嬢。お前はさっき、俺のためだと言ったな」
アマーリエの前に膝をつき、目線を合わせる。
「見ろ。これが、ルチアのいない俺だ」
砕けた窓。ひび割れた壁。宙に浮かんでは落ちる燭台の破片。
アマーリエは、ただ呆然と周りを見回していた。
「お前の魔力で、これを静められるか?」
「……っ」
「十年、どんな魔導師にも、どんな魔導具にもできなかった。ルチアだけだ。ルチアだけが、俺をただの人間に戻してくれた」
俺は立ち上がった。
「魔導院には、俺から正式に報告する。お前が私的な理由で研究対象の情報を外部に漏らし、俺の協力者を脅して退去させたとな。処分は院が決めるだろう」
アマーリエの顔から、完全に血の気が引いた。
俺はもう、彼女を見なかった。
「ハロルド。馬を出してくれ」
「旦那様、そのお体で馬車は……」
「馬でいい。走らせたほうが早い」
この状態で王都の街中を抜ければ、どれだけの被害が出るかわからない。それでも、行かなければならなかった。
頭の中で嵐が吹き荒れる。視界の端が白く霞む。
それでも、目を閉じれば思い出せる。
植え込みの陰で握られた小さな手。焼き菓子の甘い匂い。胡桃のパンを褒めたときの、ぱっと明るくなった顔。
俺は外套を羽織り、塔の扉を押し開けた。




