第12話 帰りたくない家
夜明け前、ルチアは静かに長椅子から起き上がった。
シリルはまだ深く眠っている。つないでいた手を、一本ずつ指をほどくようにして離した。
シリルの眉が、かすかに寄る。
ルチアは息を止めて、しばらくそのまま待った。やがて寝息が元に戻るのを確かめて、足音を忍ばせて部屋を出た。
自分の部屋で、ここへ来たときと同じ古い鞄に荷物を詰める。
着替えが三着。母の形見の櫛。それから、青い硝子玉。
シリルが用意してくれた何着ものドレスは、すべて衣装棚に残していくことにした。
机の上に、短い置き手紙を置く。
――シリルへ
家に帰ることにしました。
これまで本当にありがとう。あなたの役に立てて、とても幸せでした。
グランツ様と、どうかお体を大切に。
ルチア
何度も書き直したけれど、結局それ以上の言葉は見つからなかった。
本当に伝えたいことは、書いてしまえばきっと、ここを離れられなくなる。
階段を下りると、台所にほのかな灯りがついていた。
ハロルドが、身支度を整えた姿で立っていた。
「……やはり、行かれるのですね」
「ハロルドさん」
「お止めはいたしません。ルチア様がご自分で決められたことですから」
老執事は静かに言って、小さな包みを差し出した。
「胡桃のパンです。道中、召し上がってください」
ルチアは包みを受け取り、深く頭を下げた。
「シリルを、よろしくお願いします」
「それは、わたくしの台詞ではありませんね」
ハロルドは、どこか寂しげに微笑んだ。
「ルチア様。旦那様がお目覚めになったら、わたくしは何もかもお話しいたします。手紙のことも、すべて。それだけは、ご承知おきください」
ルチアは何も答えられず、もう一度だけ頭を下げて、塔の扉を開けた。
まだ薄暗い丘の上を、冷たい風が吹き抜けていった。
エインズワース伯爵家の門をくぐったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
ひと月半ぶりに見る屋敷は、ひどく様子が変わっていた。
玄関の上の魔導灯は割れたまま放置され、庭の噴水は止まっている。窓の多くには厚いカーテンが引かれ、昼間だというのに屋敷全体がどんよりと薄暗かった。
扉を開けた使用人は、ルチアの顔を見るなり目を丸くした。
「ルチアお嬢様……!」
その声を聞きつけて、廊下の奥からベアトリスが現れた。
ルチアは、思わず息を呑んだ。
いつも完璧に整えられていた継母の髪は乱れ、目の下には濃い隈が浮いている。豪奢なドレスの裾には、焦げたような跡があった。
「やっと戻ったのね」
ベアトリスは、出迎えの言葉もなくルチアの腕をつかんだ。
「来なさい」
「お母様、何が……」
「いいから来なさい!」
引きずられるように大広間へ連れて行かれる。
そこで、ルチアは言葉を失った。
天井から下がる魔導灯はすべて砕け、床に硝子の破片が散らばっている。壁際の暖炉は火種が暴走したのか、まわりの壁紙が黒く焼け焦げていた。
そして、広間の中央の椅子に、テオドールがぐったりと座り込んでいた。
金の髪は乱れ、頬はこけている。跡継ぎに選ばれた日の、胸を張った姿はどこにもなかった。
「テオドール……?」
「……姉上」
弟は、虚ろな目でルチアを見上げた。
「姉上が出て行ってから、ずっとこうなんだ。魔導具が、毎日のように壊れる。灯りも、火種も、何もかも。僕が触ると、余計にひどくなる」
「魔導具師は、テオドールの魔力が強すぎるせいだと言うのよ」
ベアトリスが、苛立ったように言った。
「でも、そんなはずはないわ。この子の魔力は昔から強かった。それなのに、今まで一度もこんなことはなかったのよ。おかしいと思わない?」
継母の目が、じっとルチアを見据えた。
「変わったのは、ひとつだけ。あなたがいなくなったこと」
ルチアの背筋に、冷たいものが走った。
「ローデンヴァルト卿の魔力が、あなたがそばに来てから安定したという噂を聞いたわ。……あなた、何かしていたのね。この屋敷で、ずっと」
「私は、何も……」
「何もしていなくても構わないの」
ベアトリスの指が、ルチアの腕に食い込んだ。
「あなたがここにいれば、それでいいのよ。もう二度と、この家から出さないわ」
その言葉に、ルチアは凍りついた。
手紙の一文が、ようやく理解できた。
テオドールのために、あなたにはもう一度家で過ごしてもらう必要がある。
欠け者だから追い出した。
役に立つとわかったから、連れ戻した。
それだけのことだった。
「部屋へ連れて行きなさい。外から鍵をかけて」
使用人たちが、おずおずとルチアの両腕を取る。
ルチアは、抵抗しなかった。
ここへ戻ると決めたのは、自分だ。シリルを守るために。
これでいい。これでよかったのだ。
そう言い聞かせながら、ルチアは屋根裏の古い部屋へと連れて行かれた。
背後で、重い錠前の落ちる音がした。
同じ頃。
王都外れの丘の上で、塔の窓という窓が、いっせいに砕け散った。




