セレネ
エルフの一族の長い歴史の中で、セレネほど長く族長の座にあった者はいない。
その治世は、七百年に及んだ。
判断は速く、迷いがなかった。日照りの年には、誰よりも先に蔵を開けた。森の木を求めて人間の王が使者を寄越した時には、三日のあいだ黙って話を聞き、四日目に一言で断った。王は、二度と使者を寄越さなかった。
それでいて、その心は深く慈愛に満ちていた。病に倒れた者がいれば、夜を徹して枕元に座った。過ちを犯した者を、決して見捨てなかった。一族の者は、彼女の名を口にする時、自然と声を低くした。
五百人ほどの一族は、セレネの治世のあいだ、一度も飢えることがなかった。
九百歳を少し過ぎた年の春、セレネは後継を指名し、族長の座を退いた。
理由を問う者は多かった。セレネは、ただ一言だけ答えた。
「もう、十分に生きた」
それきり、一族の前に姿を見せることは、ほとんどなくなった。
***
隠居したセレネは、森の奥の屋敷で暮らしている。平安の貴族が住んでいそうな屋敷、と言えば近い。いくつもの棟が渡り廊下でつながり、部屋はすだれで仕切られ、縁側の先には苔むした庭があり、細い小川が池へ注いでいる。池のほとりに、一本の梅の木。屋敷のまわりは土塀で、塀の向こうは一族の者が行き交う道だった。
屋敷には、五百を越えた老エルフの従者が何人もいる。誰も頼まれてはいない。セレネが族長を退いたと聞くや、勝手に押しかけてきて、今では教祖を崇めるように仕えている。ただし、恐れ多くて近くへは寄れない。いつもすだれの向こうや渡り廊下の端から、ありがたそうに拝んでいる。
例外は、若い姉妹の二人だけだった。
まだセレネが族長だった頃、狩りに出た夫婦が戻らなかった。残された幼い姉と乳飲み子の妹を、セレネは誰にも理由を言わずに自分の屋敷へ連れて帰り、族長の務めの合間に育てた。二人はセレネを「ばばさま」と呼んで大きくなった。年の差は、孫の孫の、そのまた孫の孫の……と数えていくと途中で分からなくなるくらいで、血のつながりもない。それでも家族だった。
だから二人だけは、平気でセレネの横に立つ。
***
春だった。
梅が咲いていた。
すだれを半ばまで巻き上げた縁側に、セレネは座っていた。幾重にも重ねた衣の袖から白い手がのぞき、その指に短冊と筆を挟んでいる。脇には、墨をすったばかりの硯が置いてあった。
白金の長い髪が、朝の風にわずかに揺れている。視線は、庭の梅に向けられていた。散りかけた花びらが一枚、小川に落ちて、ゆっくりと池へ運ばれていく。表情は、少しも動かない。
セレネは、筆を握り直した。短冊は、白いままだった。
セレネは本気で、歌を詠むつもりでいる。ただ、筆が下りない。何も浮かんでこないのだ。短冊には、これまで一文字も書いたことがない。
「またやってる」
いつの間にか、姉妹が縁側に立っていた。
「ばばさま、朝ごはんです」
「……あとで行く」
***
セレネは、従者と同じ卓で食事をしない。
奥の座敷に、膳が一つだけ運ばれる。運ぶのは、姉妹の役目だった。もっとも、運んだ膳がほとんどそのまま戻ってくることのほうが多い。
セレネは昔から、食べることが好きではなかった。族長だった頃は、務めのために、最低限だけは口に入れていた。族長を退いた頃から、生きることにも興味がなくなって、その最低限さえ、どうでもよくなった。まだ幼かった二人には、こう言い聞かせていた。
「私は、じきに消える。あとは、二人でしっかりやりなさい」
今朝の膳の上には、木の実を練り込んだパンと、朝摘みの果実と、香草と茸の汁物が載っている。
セレネはパンを、指先でこつこつと叩いた。
去年の冬、姉妹が出してきたパンは、金槌で叩いてサイコロ状に固めたものだった。一口で一日分になるように、という二人の工夫だった。セレネはそれを口に入れ、夜になっても、まだ無表情で噛んでいた。
翌日から、セレネは出されたパンの硬さを確かめるようになった。
こつ、こつ。
今日のパンは、石のような音がした。
セレネは膳を押し戻した。
姉が、汁物の椀だけをそっと前に戻した。
「せめて、これだけでも」
結局、根負けして椀だけは空けた。
***
二人がセレネに食べさせることに必死なのは、今に始まったことではない。
十五年ほど前のある昼下がり、セレネは座敷で昼寝をしていた。
そこへ、籠いっぱいのどんぐりを抱えた幼い二人がやってきた。
「ばばさま、またたべてない」
「ねてるうちに、たべさせよう」
妹がセレネの口をそっと開け、姉がどんぐりを一粒入れた。
入った。
二粒目も入った。三粒目も入った。籠を傾けると、どんぐりはざらざらと口の中へ消えていき、両頬がリスみたいにぱんぱんに膨らんだ。
「まだはいる」
「すごい」
親指で押し込むと、まだ入った。両手の指を全部使って押し込むと、まだ入った。妹がセレネの顔に乗って、かかとで踏み込むと、まだ入った。
とうとう、入らなくなった。
姉は黙って納屋へ行き、金槌を持って戻ってきた。
妹が、どんぐりをとがったほうを下にして、セレネの唇の隙間に立てる。姉が、その根元に金槌を当てる。
トン、トン、トン。
釘を打つ要領だった。どんぐりは少しずつ沈んでいき、最後のカン!で、頭まできれいに口の中へ埋まった。
「はいった」
「つぎ」
トン、トン、トン、カン! トン、トン、トン、カン!
二本目、三本目と、どんぐりは行儀よく並んで埋まっていった。
十本目で、姉の手もとが狂った。
ゴキッ。
前歯が一本、畳の上に転がった。
二人は、しばらく前歯を見ていた。それから、顔を見合わせた。
妹が黙って前歯を拾い、どんぐりと同じように、唇の隙間に立てた。姉が根元に金槌を当てた。
トン、トン、トン、カン!
「くちにはいったら、いっしょ」
「いっしょ」
二人はうなずき合い、何事もなかったように次のどんぐりを立てた。
トン、トン、トン、ゴキッ。
また外れた。拾って、立てて、トン、トン、トン、カン!
トン、トン、ゴキッ。拾って、立てて、トン、トン、トン、カン!
そのうち、どちらを打っているのか二人にもよく分からなくなった。
セレネは寝ていた。長く生きたエルフは、眠りも深い。どんぐりの隙間から、すうすうと寝息が抜けていた。息が抜けるたびに、口の端からどんぐりが一本、ぽろりとこぼれた。
妹が、こぼれたどんぐりを拾った。
「ふた、しなきゃ」
姉は黙って台所へ行き、漬物石を一つ持って戻ってきた。いちばん小さいのを選んできたらしい。ちょうど、口にふたができそうな大きさだった。
二人は漬物石をセレネの口に当てた。姉が金槌を振りかぶった。
ゴン。
ゴン、ゴン。
ゴォン!
漬物石が、顎にがっちりとはまった。
寝息が止まった。
セレネの顔が、だんだん赤くなっていった。赤はどんどん濃くなり、やがて赤黒くなった。それから、すうっと白くなった。
セレネは、動かなくなった。
二人は金槌を持ったまま、セレネの顔をのぞき込んだ。
「ばばさま?」
返事はなかった。
ブフォーーーーーッ!!
漬物石が真上へ吹き飛び、天井を突き破り、屋根を突き破って、空へ消えた。
じゃらじゃらじゃらじゃらじゃらじゃら!
後を追うように、どんぐりと前歯が噴き上がった。
セレネが、ぜえぜえと息をした。目が、うっすらと開いた。
ひゅるるるるる……。
漬物石が落ちてきた。
ゴン。
額のど真ん中だった。セレネは、また動かなくなった。
目を覚ましたのは、夜になってからだった。
屋根がなかった。額には、漬物石の形のこぶができていた。あたりは一面、どんぐりの海だった。
セレネは、二人を見た。姉の握っている金槌を見た。どんぐりの海の中に、白くて小さいものがいくつも混じっていた。
「ころふひか!」
すうすうと、歯の隙間から息が抜けた。
「だって……」
「たべてほしかったの……」
二人そろって泣き出した。セレネは、それ以上怒れなかった。
歯が生えそろうまで、三年かかった。
***
秋になった。
セレネは、春よりもさらに食べなくなっていた。
膳は、ほとんど手をつけられないまま下げられた。パンの硬さを確かめることさえ、しなくなった。叩きもせずに、ただ押し戻す。
ある夕暮れ、セレネは縁側で、庭の木から葉が一枚、枝を離れて落ちるのを見ていた。
いつの間にか、その手には短冊と筆がある。
その頬を、涙がつつ、と流れた。
「いと、あわれ」
すだれの向こうで、老従者たちが深々と頭を下げた。
空が赤く染まっていく。森の上を、鳥が三羽、四羽、ねぐらへ急いで飛んでいく。その向こうを、雁が列をなして渡っていった。小さく、小さくなっていく。
セレネは、それを見送った。
涙が、またつつ、と流れた。
「いと、あわれ」
短冊は、白いままだった。
その夜、姉妹は縁側に並んで座った。
「ばばさま」
セレネは振り返らなかった。
「消えるなどと、もう仰らないでください」
セレネは、わずかに眉を寄せた。
「死にたいわけではない。ただ、もう十分に生きたと思っているだけだ」
***
翌朝、セレネは遺跡へ向かう支度をした。
集落からずっと離れた森の中に、古い石造りの遺跡がある。エルフが今の集落を作るより、さらに昔からある建物で、その奥には一基の転移装置が残っている。
行き先は一つだけ。王国の遠い辺境にある、もう一つの装置だ。好きな場所へ飛べるわけではないし、誰が何のために作ったのかは、九百年以上生きたセレネも知らない。
セレネは、その装置を定期的に点検していた。
遺跡への道にも、姉妹は弓を背負ってついてきた。妹が、果物を山盛りに包んだ風呂敷包みを抱えている。
「せめて、これだけは」
「いらぬ」
「お腹が空いたら、召し上がってください」
「空かぬ」
押し問答の末、セレネは風呂敷包みを受け取った。
「……祭壇に供えておく」
姉妹は何か言いたそうにしたが、セレネはもう風呂敷包みを抱えて歩き出していた。しばらく行くと、道の脇の茂みで、鹿が二頭、交尾していた。
セレネは足を止め、風呂敷包みを足もとに置き、短冊と筆を構えて、それをじっと見つめた。その頬を、涙がつつ、と流れた。
「いと、あわれ」
しばらく筆を構えていたが、何も書かずに筆を下ろした。
「ばばさま、遺跡までお供します」
「必要ない。私だけで大丈夫だ」
セレネは振り返らずに進んだ。二人は顔を見合わせ、その場に残った。
一人きりでしばらく進むと、木々の向こうに古い遺跡の影が見えた。
セレネは、そこで初めて立ち止まった。
「……何か、胸騒ぎがする」
遺跡の奥では、石の台を囲むように、床へ古い紋様が刻まれている。セレネはしゃがみ込み、一つずつ指でなぞって確かめていった。
最後に、台の側面に埋め込まれた小さな石板を見る。表面には、うっすらと埃が積もっていた。何百年も、誰も触れていない証拠だった。
「異常なし」
立ち上がった時、腹が鳴った。
ぐう。
セレネは動きを止めた。もう一度、ぐう、と鳴る。
空腹だった。何百年ぶりかも分からない。
祭壇には、姉妹に持たされた果物が山盛りに供えてあった。さっきまでなら、見向きもしなかったものだ。
唾が湧いた。
一歩近づく。もう一歩。
セレネは、果物へ手を伸ばした。
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