森の遺跡
まだ暗いうちに、扉を叩く音で目が覚めた。
「おぼっちゃま、起きてくださいませ」
宿の主人だった。両脇では、ヴィクトリアとレオナがまだ寝息を立てている。
扉を開けると、主人は廊下を一度見回してから声を落とした。
「騎士の方々が、まだこの辺りを捜しておられます。街道を何度も行き来しております」
一気に目が覚めた。王女と騎士団長を連れているのだ。事情を説明すれば済む話なのかもしれないが、説明できる事情が俺にも分からない。
「しばらく森の方へお隠れくださいませ。人目につかない道がございます。お出になるなら、今のうちでございます」
宿まで調べられるよりはいい。少しの間だけ森へ逃げて、騎士団が諦めた頃に戻ればいい。
この時の俺は、本当に戻ってくるつもりだった。
***
二人を起こし、宿の裏口から外へ出た。
「どうか、お気をつけて」
「すぐ戻ります」
「お待ちしております」
主人は深く頭を下げたまま見送っていた。
***
その頃、街道脇の草むらで、白銀の鎧が見つかった。
「止まれ!」
十騎が一斉に馬を止め、騎士たちが道端へ駆け寄った。
毎日見ている、団長の鎧だった。肩当てと胸当てが、ひと揃いのまま道端に転がっている。
傷はない。血もついていない。
留め具は、一つ残らず丁寧に外してあった。
「兜がない」
「団長もいない」
「馬はいる」
すぐそばで、団長の白い馬がのんびり草を食べていた。
全員が黙った。一人の騎士が、鎧を見つめたまま口を開く。
「これって、もしかして団長は……」
誰も続きを言わなかった。言わなかったが、全員が同じものを想像した。
十人の顔が、一斉に赤くなる。
「けしからん!」
「けしからん!」
「けしからん!」
「俺にも見せろ!」
***
森へ入ってしばらく歩いた。
「おもい」
後ろでレオナが、剣を両手で引きずっていた。鞘の先が地面を擦り、ずるずると線を引いている。
「だから置いてこいって言っただろ」
「いる」
レオナは剣を抱きしめた。
「お兄ちゃん、だっこ」
今度はヴィクトリアが両手を上げた。
「歩け」
「つかれた!」
後ろを見ると、レオナも両手を上げていた。
「だっこ」
「お前、俺よりでかいだろ!」
王国の騎士団長が、剣を足元に転がして、両手を上げて待っている。
「レオナばっかりずるい」
「ずるくない!」
「ずるい!」
「ずるくない!」
「うるさい!」
二人とも黙った。と思ったら、今度は睨み合い、ヴィクトリアが先に涙目になった。
「レオナのばか!」
「ヴィクトリアのばか!」
言い返したレオナまで泣き出した。二人の泣き声が、森の中で見事に重なる。
「あー、鬱陶しい!」
ポケットを二度叩き、出てきた飴玉を一つずつ二人の口へ押し込んだ。
ぴたり、と泣き声が止まった。二人とも飴玉をくわえたまま、まだ相手を睨んでいる。
遠くで、馬がいなないた。
騎士団と話が通じる可能性もある。だが、その可能性に賭けて十人の騎士に囲まれるほど、俺は勇敢ではない。
「二人とも、つかまれ!」
返事を待たず、ヴィクトリアを右肩、剣を拾ったレオナを左肩へ抱え上げて走った。景色が一気に後ろへ吹き飛ぶ。
「すごい!」
「はやい!」
「もっと!」
「無茶言うな!」
レオナが俺の頭にしがみついた。
「およめさんになる!」
「しない!」
枝を避け、木々の隙間を縫って森の奥へ突っ込む。蹄の音は、あっという間に聞こえなくなった。
「よし、撒いた……」
そこまで言ったところで、足から力が抜けた。二人を下ろして、その場に倒れ込む。
「お兄ちゃん、つかれた?」
「誰のせいだ……」
***
息が戻ってから、森を進んだ。
昼間なのに、枝葉が重なって薄暗い。どこかで葉が擦れるたびに、ヴィクトリアが俺の服をつかむ手に力が入った。
「こわい?」
「こわくないですわ」
声が震えている。
その横で、レオナは平然と落ち葉を蹴っていた。茂みががさっと鳴ると、ヴィクトリアは俺の腕にしがみつき、レオナは茂みに顔を突っ込んだ。
「なんかいる」
「覗くな」
「みたい」
「やめろ」
レオナが茂みから両手で引っ張り出したのは、耳の長いウサギだった。目が合ったヴィクトリアは悲鳴を上げ、俺の背中をよじ登って肩車の位置に収まった。ウサギは跳ねて逃げた。
頭の中身は同じくらいのはずなのに、森への態度はまるで違う。
「お兄ちゃん、あそこ」
肩の上から、ヴィクトリアが前を指さした。木々の向こうに、蔦に覆われた石造りの建物が見えた。神殿なのか砦なのかは分からないが、いかにも遺跡だった。
入口に扉はない。中の壁や床には見たことのない模様が刻まれ、奥には大きな石の祭壇があった。
その前に、女がしゃがみ込んでいた。
長い髪、細い身体、長い耳。遠目にも、ただごとではない美人だと分かった。
そんな美女が、祭壇の供え物の果物を、ものすごい勢いで食っていた。
「……何してんの?」
聞こえていない。最後の一つを丸ごと頬張り、あっという間に食べ終えると、女は空になった祭壇を見た。
まだ足りないらしい。
今度は石の隙間から雑草をむしり、口へ入れた。もう一束むしって、また口へ入れる。両頬が、リスみたいにぱんぱんに膨らんだ。
もぐもぐと噛むうちに、美人の顔がみるみる曇り、目に涙が浮かんだ。
「まずいぃ……」
「そりゃ草だからな!」
女は草を吐き出すと、床を這っていたミミズをつまみ上げた。
「待て待て待て!」
口へ運ぶ寸前で手首をつかむ。
「おなかすいたぁ!」
女が泣き出した。
また、アホの子かよ。
飴玉じゃ足りない。腹にたまるものを出そう。ポケットを叩くと、うまい棒が出た。
女は受け取るなり、袋ごと口へ入れようとした。
「袋は食うな!」
取り上げて袋を破き、中身だけ渡す。
しゅこん。
刀を鞘に納めるような音がして、うまい棒が一本、まるごと口の中へ消えた。
「……今、噛んだ?」
「もっと!」
叩く。破く。しゅこん。
叩く。破く。しゅこん。
三本目で、両頬がリスみたいにぱんぱんに膨らんだ。それでも四本目が入った。
「もっと! もっと!」
「ちょっと待て! 追いつかない!」
叩く手を速めた。考える暇もないので、思いつく味を片っ端から出す。叩いて、破いて、渡す。叩いて、破いて、渡す。そのうち、自分の右手が見えなくなった。
ぽぽぽぽぽぽぽっ!
ポケットから、うまい棒が噴き出した。めんたい、コーンポタージュ、チーズ、たこ焼き、サラミ。
女は宙を舞ううまい棒へ飛びついた。袋の端を歯でくわえ、首を一振りして中身だけを口へ落とし、空き袋をぺっと吐き捨てる。次の一本へ跳ぶ。くわえる。振る。吐く。しゅこん。
袋を破く係は、いつの間にか要らなくなっていた。
横からヴィクトリアとレオナが袖を引いた。
「それ、ほしい!」
「ぼくも!」
「あとであげるから、静かに待ってなさい!」
二人はしぶしぶ並んで座り、座ったまま、飛んでくるうまい棒に向かって口を開けた。その頭上を女が飛び越え、横からかっさらっていった。
「とられた!」
「とられましたわ!」
ぽぽぽぽぽぽぽっ! しゅこん。しゅこん。しゅこん。
祭壇の前に、空き袋が雪のように積もっていく。
ようやく催促が止まった。俺の右手は、まだ勝手にポケットを叩いていた。
空き袋の山の真ん中に、女が座り込んでいた。細かった腹が、服の上からでも分かるくらいまんまるに膨らんでいる。女は自分の腹を見下ろし、ぽんぽん、と満足そうに叩いた。
俺の左手には、破いたばかりのうまい棒が一本残っていた。
女の目が、それを見つけた。
四つん這いでにじり寄ってくる。止める間もなく、うまい棒の先にかぷっと食いついた。
ごくん、と飲み込み、うまい棒のなくなった俺の指を舐めた。
女はそのまま身を乗り出し、俺の顔を見上げた。
近い。顔と顔の距離は十センチもない。口は半開きで、口の周りには菓子の粉と欠片がいくつもついている。
それでも、とんでもなく美しい顔だった。白金の髪に縁どられた、絵か彫像のような顔が、口の周りを粉だらけにして、俺を見上げている。
吸い込まれそうな、灰色の瞳だった。その瞳が、まばたきを一度もしない。
ドキッとした。
女の目が細くなり、にこっと笑う。
「お兄ちゃん、ちゅき」
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