レオナ
レオナが剣術道場へ連れてこられたのは、十八歳の時だった。剣士を目指すには遅い。
もっとも、父親に娘を剣士にする気などなかった。
「この子、鍬の振り方がどうにも下手でして」
道場主が黙った。
「……鍬?」
「はい」
「ここは剣術道場だが」
「剣も鍬も、振るものでしょう?」
道場主は長いこと父親を見た。父親も見返した。道場主は月謝のことを考えた。
「……うむ」
「よろしくお願いいたします!」
レオナだけが姿勢よく立っていた。
***
「腰を落とせ!」
「はい!」
「腕だけで振るな!」
「はい!」
レオナは教えられたことを片っ端から吸収した。一度見せれば覚え、二度やらせれば形になり、三度目には道場主が黙った。
「師匠?」
「……いや。続けろ」
道場には年上の先輩がいた。入門した日、道場で一番強かったのはその先輩だった。
「すごい……」
「そんなに見るなよ。やりにくい。お前も続けてれば、そのうち強くなる」
「はい!」
それからレオナは先輩を追いかけた。稽古が終われば質問し、先輩が素振りをすれば隣で振り、先輩が休めば立ち合いを頼んだ。
「休ませろ!」
恋というものをよく知らなかった。ただ、先輩がいる日は嬉しかった。褒められれば一日中機嫌がよかった。
ある日の帰り道、先輩が言った。
「いつか、一緒に剣の道を究められたらいいな」
レオナはその夜、眠れなかった。結婚したらどうしよう、とまで考えた。
***
半年後、木剣が先輩の手から飛んだ。
「先輩! 初めて勝てました! もう一度お願いします!」
「今日はちょっと肩が」
翌日。
「先輩!」
「腰が」
翌々日。
「先輩!」
「腹が」
三日後。
「先輩!」
「親戚が」
「ご病気ですか!?」
「いや、元気だ」
「では立ち合いを!」
「なんでそうなる」
先輩は、だんだん道場へ来なくなった。
師匠は何も言わなかった。次は自分の番だったからである。
***
「師匠! 立ち合いをお願いします!」
道場主は茶を飲んでいた。
「お前に必要なのは、もはや剣ではない。精神じゃ」
「精神……!」
「あの岩を、日が暮れるまで見よ」
「はい!」
レオナは岩の前に正座し、日が暮れるまで微動だにしなかった。
「……何か分かったか?」
「分からないということが分かりました! 明日も岩を見ます!」
「いや、明日は木を見よ」
翌日は木を見た。その翌日は川を見た。さらに翌日は空を見た。レオナは一度も師匠を疑わなかった。
見るものがなくなると、戻ってきた。
「師匠! 立ち合いをお願いします!」
道場主は茶を吹いた。
「……お前の剣、切れ味が落ちておらんか。王都に腕のいい研ぎ師がおる。行ってこい」
「なるほど! 行ってまいります!」
王都までは歩いて一時間。道場主は久しぶりに、ゆっくり茶を飲んだ。
***
王都の研ぎ師は、レオナの剣を抜いて黙った。裏返して、また黙った。
「嬢ちゃん、何を斬った」
「薪です」
「薪割りに剣を使うな」
「いけないのですか!」
初めて知った。
「こっちの刃こぼれは」
「石です。師匠に岩を見ろと言われまして」
「見るだけにしろ」
「では、木は?」
「斬るな」
「川は?」
「何を斬る気だ」
研ぎ師は深いため息をついた。
「剣がかわいそうだ」
「……すまない」
レオナは剣に謝った。
***
研ぎ上がった剣を腰に差して大通りを抜けようとした時、焼きたてのパンの匂いがした。
店先に、見覚えのある横顔があった。道場から消えた先輩が、パンを棚に並べている。
レオナの顔が明るくなった。
「先輩!」
声をかけようとした時、店の奥から若い女性が出てきた。
「あなた、こっちも焼けたわよ」
「おう。今持っていく」
女性が、先輩の肩についた粉を払った。先輩が笑った。
先輩は剣を持っていなかった。
いつか、一緒に剣の道を究められたらいいな。
レオナは声をかけずに背を向けた。
***
村までの道が、やけに遠かった。
先輩は剣を辞めた。結婚していた。自分には何も言わなかった。
半分ほど来たところで、森の中から低い唸り声がした。
木々の間から出てきたのは、牛ほどもある黒い魔物だった。背中から何本もの骨の棘が突き出している。王都の近くにいるはずのない魔物だった。
レオナは剣を抜いた。研いだばかりの刃が夕日を返した。
巨体が地面を蹴る。横へ飛んだが、爪が肩を裂いた。痛い。それでも立った。脇腹へ斬りつけても浅い。体当たりで吹き飛ばされ、地面を転がって息が詰まった。
剣だけは離さなかった。
立て。
膝が震えた。それでも立った。また裂かれる。また立つ。腕から、頬から、血が流れた。
何度目かも分からなくなった頃、魔物の前脚が崩れた。
「はあああっ!」
残った力の全部で、剣を首へ叩き込んだ。
魔物が倒れた。レオナも膝をついた。
しばらくして立ち上がる。服は破れ、全身から血が垂れている。それでも、今日研いでもらった剣は手の中にあった。何度振っても、そこにあった。
レオナは唇を噛んだ。血が出るほど強く。
「もう男はいらない。私は、剣に生きる」
涙は出なかった。その目だけが、凄まじかった。
***
翌日、道場主は身構えていた。今日も立ち合いを頼まれたら、滝でも見に行かせるつもりだった。
レオナは道場の隅へ行き、一人で剣を振り始めた。
「……レオナ。今日は立ち合いはせんぞ」
「あ、そうですか」
振る。また振る。翌日も、その翌日も振る。師匠が茶を飲んでいても、岩を指さしても、何も言ってこない。
静かだった。平和だった。
一週間後、道場主は茶を置いた。
「今日は久しぶりに、わしと立ち合いでも……」
レオナは振る。
「……レオナ?」
振る。
道場主は少し寂しくなった。
***
その後、レオナは騎士団へ入った。
田舎から出てきた新人は、剣以外は何も知らなかった。装備の手入れも、馬の扱いも、割安な食堂の場所も、古参への挨拶も、全部副団長が教えた。
最初の給金日には、副団長が若い騎士たちと一緒に酒場へ連れていった。
「新入り、飲めるか」
「飲んだことがありません」
「なら、少しだけな」
レオナは一杯飲み干すと、立ち上がった。
「先輩方! 立ち合いをお願いします!」
酒場が静まり返った。面白がった古参が三人、表へ出ていった。
三人とも、這って戻ってきた。
勘定は副団長が払った。家に帰ると、妻に怒られた。
それからレオナは、先輩騎士を抜き、副団長を抜き、当時の団長を抜いた。そして誰よりも剣を振った。
当時の団長は、立ち合いを三度断ったあと、早期退職した。
副団長は、辞めなかった。
剣を始めて四年。二十二歳で、農家の娘は騎士団長になった。
鍬は、相変わらず下手なままだった。
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