ミナ
辺境の荒れ地の北に、小さな村があった。
畑と、井戸と、家が十軒ほど。ほかには何もない。雨の少ない土地なので、畑の作物はいつもどこか元気がなかったが、村の人間は元気だった。夕方になれば誰かの家の前に集まって、誰かの悪口と、誰かの自慢話と、今年の麦の出来の話をした。毎年、麦の出来は悪かった。毎年、来年はよくなると言っていた。
ミナは、その村の娘だった。
ミナの父親は、自分では村の用心棒のつもりでいた。
といっても、誰かに雇われているわけではない。報酬をもらったこともない。辺境の村には獣も出るし、たまには流れ者も来るから、誰かが守らなければならない。それなら剣を持っている自分がやる、と勝手に決めて、毎朝、畑に出る前に錆びた剣で素振りをし、畑仕事の合間に村をひと回りした。頼まれれば隣の家の屋根も直したし、頼まれなくても井戸の綱を替えた。そういう、お人好しだった。
「俺は、騎士団長の兄弟子だ」
それが、父親の口ぐせだった。若いころ、王都の近くの道場で、ほんの少しだけ剣を習ったことがある。何年もたってから、その道場から王国の騎士団長が出たという噂が、辺境まで流れてきた。同じ師匠に習ったのだから、兄弟子には違いない。それ以来、父親は誰にでもこの話をした。
噂には、尾ひれもついていた。騎士団長は、剣で薪を割る。石も斬る。岩をにらむだけで、岩のほうが割れる。
「なにしろ、俺の弟弟子だからな」
父親は、まるで自分のことのように胸を張った。
村人たちは、それを笑って聞いていた。そのうち誰が言い出したのか、父親は村じゅうから「兄弟子」と呼ばれるようになった。
「それでな、俺は若いころ、狼を斬ったことがある。師匠が俺に言ったんだ。お前の剣には――」
「そんなことより、畑」
夕方、家の前で父親が自慢話を始めると、母親が後ろから鍬を突き出した。父親はびくっと肩を跳ねさせ、鍬を受け取った。
「せっかくの剣士さまも、母ちゃんの前じゃかたなしだな」
話を聞いていた村の衆がどっと笑い、父親は肩をすぼめて畑へ戻っていく。いつもの光景だった。
隣の家には、幼馴染のドリスがいた。
ミナと同じ十四歳で、同じくらいの背丈で、ミナより頭ひとつぶん、しっかりしていた。一人っ子のドリスは、小さいころからミナを妹のように思っていて、何かと世話を焼いた。
ミナは、それが嫌だった。ドリスが嫌いなわけではない。同じ年なのに、ドリスはなんでもできて、ミナはなんにもできない。ドリスに助けられるたびに、自分だけがだめなのだと分かってしまうのだ。
***
母親が井戸へ洗濯に出ていた昼下がり、ミナは父親に薪を頼まれた。
「裏の薪、割っといてくれるか」
ミナは、裏の薪の山の前に立った。手には、斧ではなく、壁に掛けてあった父親の錆びた剣を握っていた。
騎士団長は、剣で薪を割るらしい。父親が言っていた。
ミナは剣を振りかぶり、薪に打ち下ろした。こん、と鈍い音がして、刃がはね返った。薪は、なんともなかった。もう一度打っても、こん。もう一度打っても、こん。
当たるところが悪いのかもしれない。ミナはしゃがみこんで薪をくるくる回し、木目を見た。年輪の詰んだところと、粗いところがある。節がある。端に、細いひびがある。このひびに沿って打てば、割れるかもしれない。
ミナは立ち上がって、ひびのところに剣を当て直した。
こん。こん。こん。
打つたびに、まわりが少しずつ遠くなっていった。
さっきまで聞こえていた鶏の声が、聞こえなくなった。畑のほうで誰かが笑っている声も、隣の家で鍋を叩く音も、聞こえなくなった。薪の山も、裏庭の垣根も、見えなくなった。目の前には、一本の薪と、その端の細いひびだけがあった。
ひびは、打つたびにほんのわずかに口を開けた。開けたように見えた。ミナは息をするのも忘れて、その隙間だけを見ていた。
おなかの下が、重たく張ってきた。足をもじもじと踏みかえて、ミナはまた剣を振り上げた。あと少し。あと少しで、割れる。重たさは、いつのまにか、ずっと遠くのことになっていた。
影が、ミナの足もとから薪の山の向こうまで伸びていた。
ミナは両手で剣を振りかぶり、ひびのまん中に打ち下ろした。
ぱかん。
薪が、二つに割れて転がった。
その音と一緒に、世界が戻ってきた。鶏の声。風の音。夕方の煙の匂い。それから、足の冷たさ。
「……あ」
足元に、水たまりができていた。
「ミナがもらしたー!」
垣根の向こうから、近所の悪ガキが顔を出していた。いつもミナをからかってくる子だった。悪ガキはうれしそうに跳びはねると、村じゅうへ触れ回りに走っていった。
「ミナがもらしたぞー!」
「やめてよ! ちがうの、これは、薪が――」
言い終わる前に、ミナの顔はみるみる真っ赤になった。
畑から戻ってきた父親が、それを見て、ぶはっと噴き出した。
「ミナ、また夢中になってたな」
「笑わないでよ!」
悪ガキの声を聞きつけて、隣の家の戸が開いた。出てきたドリスは、水たまりとミナの顔を一度ずつ見ると、ミナの家へ入っていき、ミナの替えの服を抱えて戻ってきた。どこに何がしまってあるのか、ドリスは知っていた。
「ミナちゃん、着替えようね」
「見ないで!」
ミナは服をひったくって、家の中へ走って逃げた。
着替えて戻ってくると、ドリスは裏庭にしゃがんで、二つに割れた薪を拾い上げていた。
「すごい、ちゃんと割れてる。よくできたね」
ドリスは薪を山の上にそっと載せると、自分の家へ帰っていった。
「ドリスちゃんに、ありがとうは?」
「……やだ」
***
ある日の昼過ぎだった。
「イノシシだ!」
村の裏手の山から、大イノシシが下りてきた。牙は短剣ほどもあり、村はずれの豆畑で、豆の畝を鼻でひっくり返している。
「兄弟子!」
「兄弟子を呼べ!」
畑から駆けつけた父親は、錆びた剣を抜くと、集まってきた村人たちに向かって叫んだ。
「みんな、家の中に隠れてろ! ここは、俺がやる!」
声は裏返っていたが、村人たちは言われたとおりに家へ駆けこみ、戸を閉めた。ミナも母親に腕を引かれて、家の中へ押しこまれた。
豆畑には、父親とイノシシだけが残った。
「お、俺は、騎士団長の兄弟子だぞ!」
イノシシが、こっちを向いた。父親の膝が、がくがくと震えた。
イノシシが、地面を蹴った。
「わあああああ!」
父親は悲鳴を上げて逃げ出し、逃げながら、剣を後ろへ放り投げた。重かったのだ。
剣はくるくると回りながら空へ上がり、井戸のはね釣瓶の綱を、ぷつりと切った。重りの石がどすんと落ちて、竿がびよーんと跳ね上がる。竿の先の桶が、鶏小屋の屋根をすっぱーんと叩いた。
鶏が、一斉に飛び出した。
ばさばさと舞い上がる鶏に驚いて、山羊が暴れた。暴れた山羊が、坂の上に止めてあった荷車を後ろ足で蹴った。荷車はごろごろと坂を下りはじめ、積んであった肥桶が、坂の途中でひっくり返った。
そのころ父親は、村の真ん中の木によじ登っていた。
父親を追ってきたイノシシは、木の手前で肥を踏んだ。つるっと滑り、くるくると回りながら地面を滑っていって、そのまま井戸の石組みに頭から突っこんだ。ごつん、と鈍い音がした。
イノシシは、目を回してのびた。
最後に、空の高いところから、父親の剣が落ちてきた。剣はまっすぐにイノシシの尻に刺さり、ぶすっ、といい音がした。
村が、しんと静まりかえった。
しばらくして、あちこちの家の戸が、少しずつ開いた。村人たちが恐る恐る外へ出てくると、井戸のそばに、大イノシシが尻に剣を立てたまま倒れていた。木の上では、父親が枝にしがみついたまま、白目をむいて気絶していた。
「……兄弟子が、仕留めたぞ!」
誰かがそう言うと、村じゅうがどっと沸いた。
木から下ろされた父親は、しばらくきょろきょろしていたが、自分を取り囲む村人たちの顔と、尻に剣の刺さったイノシシを見比べると、ゆっくり胸を張った。
「ま、まあな。兄弟子だからな」
村人たちは、もう一度どっと沸いた。
ミナは戸口から飛び出して、イノシシと、胸を張る父親を見比べた。ミナの目が、まん丸になった。
その後ろで、母親だけが、肥まみれの坂と、屋根の抜けた鶏小屋と、綱の切れたはね釣瓶を、順番に眺めていた。
***
その夜、村は久しぶりの肉で宴になった。
村人たちは、代わる代わる父親の椀に酒を注ぎにきた。
「さすが、騎士団長の兄弟子だ」
「剣を投げて仕留めるなんて、聞いたこともねえ」
父親は、注がれるたびに少しずつ胸を張っていった。最初は「たまたまだ」と言っていたのが、そのうち「狙って投げた」になり、夜が更けるころには「最初から、はね釣瓶を狙っていた」になった。
ミナは、父親の隣に陣取った。父親が何か言うたびに、誰よりも大きくうなずいた。
「父さんが倒したんだよ! 剣がね、ぴゅーって飛んで、それで、あ、この肉おいしい。それでね、ぶすって」
肉をかじりながらしゃべったので、肉のかけらが飛んだ。手に持った骨から汁が垂れて、服にしみができた。身ぶりの肘に押されて、椀が傾いた。
横に座ったドリスが、椀をまっすぐに戻した。
「ミナちゃん、お椀は両手で持とうね」
「うん。それでね、イノシシがね」
ミナは片手で椀を持ち、もう片方の手で骨を振り回した。肉が一切れ、ぽとりと地面に落ちた。ミナが拾って口に入れようとすると、ドリスがその手首をつかんだ。
「落としたのは食べたらダメだよ。こっちのにしようね」
ドリスは自分の皿から肉を一切れ取って、ミナの皿に載せた。それから袖で、ミナの口のまわりを拭いた。
「ドリスは、もうミナの姉ちゃんだな」
村人の誰かが笑って、ミナはむくれた。むくれたまま、すぐに忘れた。
「父さん、熊を倒した話、みんなにもしてよ!」
父親の手が、止まった。
「く、熊か」
「熊も斬ったんでしょ! 何匹? どっちから来たの? 何で斬ったの? 熊って、鳴くの? あ、熊も食べられる?」
村人たちが、身を乗り出した。
「熊もやったのか、兄弟子」
「聞かせてくれよ」
父親は、肉を口に入れたまま固まった。村じゅうの目が、まっすぐに父親を見ていた。ミナは父親の袖を引っぱり続け、そのあいだもミナの膝には汁がこぼれ、ドリスはそれを拭き続けた。
「モグラだろ」
母親が、一言だけ言った。
村じゅうが、どっと沸いた。父親は、黙って肉を噛み続けた。
***
次の日、ミナはドリスをつかまえて、畑の端に座らせた。
「それでね、父さんがね、熊をね、こう、ずばって。熊って毛がすごいんだって。あ、あの雲、熊みたい。でね、熊がね」
話は、前の晩よりさらに大きくなっていた。熊は三頭に増え、父親は木の上から飛び降りて三頭まとめて斬り、ついでにイノシシも倒した。ミナの中では、もう全部本当のことだった。
ミナの目は、きらきらしていた。手は熊の大きさを描き、剣を振り、空を指さした。ドリスのほうを向いてはいても、ドリスの顔は見ていなかった。ミナに見えているのは、頭の中の熊と父親だけだった。
ドリスは、ふと空を見た。日が、だいぶ傾いていた。夕飯の支度をしなければならない。
「うんうん」
ドリスは相槌を打ちながら立ち上がり、畑のカカシを引き抜いてきた。
「うんうん、それで?」
自分の座っていたところにカカシを立てて、向きをミナのほうへ直した。それから、ミナの耳もとで言った。
「ミナちゃん、すぐ戻るからね」
「うん。それでね、父さんがね!」
ドリスはくすりと笑って、家へ帰っていった。
カカシは、何も言わなかった。風が吹くと、こくりとうなずいた。
***
家に帰ると、ドリスの母親が熱を出して寝こんでいた。
ドリスは水を汲んで額を冷やし、粥を炊き、畑から戻ってきた父親の夕飯をこしらえた。母親が咳きこむたびに背中をさすり、濡れた布を何度も取り替えた。外がすっかり暗くなっていることにも、気づかなかった。
戸が、どんどんと叩かれた。
「ドリスちゃん! ミナ、来てないかい!」
ミナの母親の声だった。戸を開けると、ミナの両親が立っていた。母親は息を切らし、父親は松明を握っていた。
「昼から、帰ってこないんだよ」
ドリスの手から、濡れた布が落ちた。
「あ……ごめんなさい! 畑の端です!」
ミナの母親は、最後まで聞かずに飛び出した。松明もろくに持たず、垣根を越え、畝を踏みつけ、まっすぐ暗闇へ突っこんでいく。
「ミナー! どこだい、ミナー!」
「落ち着け。そっちは井戸だ」
ミナの父親が、その腕をつかんだ。夜道が怖くて、膝はがくがく震えていた。それでも、腕は離さなかった。
ドリスは二人を追い越して、畑の端へ走った。
月明かりの下で、ミナがカカシに向かって座っていた。
「……それでね、父さんが、熊を、えいって」
ドリスは駆け寄って、ミナの肩をつかんだ。ミナはようやく顔を上げて、まばたきした。それから、目の前のカカシと、肩をつかんでいるドリスを、何度も見比べた。
「あれ。ドリス、いつから藁だったの?」
ドリスは、答えられなかった。ミナの肩をつかんだまま、ぼろぼろと泣きだした。
「ごめんね。ミナちゃん、ごめんね。すぐ戻るって言ったのに。ごめんね」
「え、なんで泣いてるの? ねえ、ドリス。あ、そうだ、熊がね」
ミナには、何が起きたのか分かっていなかった。ドリスは泣きながら、ミナを抱きしめた。
追いついた父親は、ぜえぜえと息をしながらカカシを見て、それからミナを見た。
「……その熊の話、誰から聞いた」
「父さん」
母親が、父親を見た。
父親は、カカシのほうを向いた。
***
村が襲われたのは、その年の春の夜だった。
最初に聞こえたのは、馬の蹄の音だった。たくさんの馬だった。それから、誰かの叫び声。戸を蹴破る音。火の爆ぜる音。
「誰かー! 助けてくれー!」
「兄弟子ー! 兄弟子ー!」
「子どもが、うちの子がー!」
外から、村の衆の悲鳴が聞こえた。
父親は、錆びた剣を握ったまま、戸口の前で固まっていた。剣の先が、がたがたと震えている。イノシシのときと同じだった。
それでも父親は、ミナを母親の腕に押しつけた。
「裏から逃げろ」
それから、母親の顔を見た。
「……行ってくる」
声も、震えていた。父親は戸に手をかけた。
その戸が、外から蹴破られた。
松明を持った男たちが、なだれこんできた。父親は、よろけながら剣を振り上げた。
振り下ろす前に、父親の体が、くの字に折れた。
剣が、床に落ちた。父親は、それきり動かなかった。
母親は、ミナを放した。すぐさま床の剣を拾った。
「よくも、うちの人を!」
叫びながら、男に斬りかかった。
錆びた刃が、男の喉もとをかすめた。
「おっと、危ねえな」
首筋から、つうっと血が垂れた。男は刃物を振り抜いた。
母親が、父親の隣に倒れた。
ミナは、その場から動けなかった。
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