7 呪物
体感数秒、意識を落としてしまった。発条仕掛けのように身体を起こすと、慌てて前を向いた。
「……あれ?」
秋帆の席の前にいた生徒たちの姿がない。
まさかこれがネットで噂の異世界だろうかと思い掛けたところ、
「起きたな」
声の方に顔を向けると、ふたつ離れた横の席に、スマートフォンを触っている青年——『観池』が座っていた。
彼がなぜ、秋帆の隣にいるのだろうか? 頭がうまく働かない。
「あれ……僕、講義を……」
休眠していた脳が徐々に思考を始める。身体を捻って辺りを見回すが、講義室には彼ら二人と、後ろの席の方で談笑している五人組しか残っていない。
理解が追い付かず、目を白黒させている秋帆に、彼は表情を変えぬまま告げた。
「よくこんな前の席で寝てられたな」
慌てて時計を確認すると、授業はとうに終わっている時間だった。それどころか、アルバイトの時間が迫っている。
やらかした——秋帆は顔を青くし、それでもシフトに穴を開けることを詫びるため、慌ててメッセージを送った。
「先生、怒ってた……?」
「さあな。でも、同じ学部ってだけで、俺が名指しされて起こしとけって言われたから」
教育学部でこの選択授業を受けている者は少ない。しかも、一回生で男子となると、いまここにいる二人しかいない。
連帯責任ということだろう。
「……本当にごめん。起きるまでずっと待っててくれたの?」
「あと、十分して起きなかったら帰るつもりだったけど」
彼はそう言いながら、手にしていたスマートフォンを鞄にしまった。
ふと、半袖から伸びる彼の腕の白さに、思わず目を奪われた。そう言えば、彼を間近で見たのは初めてだ。
よくよく見てみると、華やかな整った顔立ちをしている。
透き通るような白い肌に、赤朽葉色の髪。髪と同じ色の睫毛が自然光のなかで柔らかそうに透けている。しかし、睫毛のしたの眼光は冷たく、赤みを帯びた褐色の瞳が威圧感を与えてくる。尊大というよりも冷厳で、見るものの裡を糺そうとする圧がある。
自分もこれくらい顔が良ければ、自信を持って美雨のポートレートの話を受けたに違いない。
「何?」
「……あ、ううん。何でも」
じろじろと不躾に見すぎてしまった。自分の行動が恥ずかしくなり、顔に火照りを覚える。
生霊の呪いから始まり、不眠、体調不良、講義中の爆睡、アルバイトの無断欠勤と続き、この失態だ。
良くない連鎖を断ち切るためにも、この後すぐにお祓いに行こう——そう決意しながら、立ち上がった。
そこで、秋帆はようやく気付いた。
(——身体が軽い)
一時間半も眠っていれば当然かも知れない。だが、それだけではない確信があった。
「……ねぇ、変なこと聞くんだけど」
鞄を肩に掛けようとしていた彼の動きが止まり、視線が秋帆に向けられた。
「僕の身体が軽くなったのって、もしかして近くに観池くんがいるから?」
『観池』——観池朱緒はその奇妙な質問に表情を変えなかった。
「前から、観池くんのいる部屋の空気って違うなって思ってたんだけど。いまはっきり分かった」
「俺が変わり者だって話か?」
朱緒は怒る訳でもなく、自虐めいたことを言う。雰囲気とは裏腹に、後ろ向きな性格なのだろうかと秋帆は少し驚いた。
「えっ、いや、そうじゃなくて…… 僕、霊感があってよく霊に取り憑かれたりするんだけど、何て言うか…… 観池くんからは、その逆の空気がするんだ」
それまで殆ど表情を変えなかった彼が、呆れ果てたように眉をひそめた。
「オマエ、馬鹿だろ。今まで話したこともない奴に、霊感があるってことを話すのか? 変な目で見られるか、厄介事を押し付けられるだけだろ」
秋帆は返す言葉に詰まった。こんなことを言われたのは、初めてだった。なかなか辛辣なことを言われたはずなのに、嫌な気はまったくしない。
「……観池くんにも霊感があるの?」
「だったら何だ」
肯定しながらも、重い口振りだった。自分と同じく周囲に知られたくないのだろう。
先の忠告から察するに、彼もまた散々な目に遭ってきたに違いない。
「観池くんの近くって霊が寄り付かないよね。もしかして、僕が起きるまで待ってくれてたのって、心配してだったりするのかな」
自意識過剰と失笑されればそれまでだが、そうであれば嬉しいと思ってしまった。
「先生に言われたからだけど」
「それでも居てくれて、ありがとう」
予想通りの言葉に、秋帆は自然と笑みが溢れてしまった。
「観池くん、僕に憑いてるモノ、視えてる?」
家族以外で悩みを打ち明けるのは、初めてだった。彼がそれを迷惑に思うということも充分理解していたが、それでも秋帆は口に出さずにはいられなかった。
「……生霊だな」
朱緒は教室の入り口に視線をやった。生霊も死霊と同じく、彼がいる限り中には入れない様子だった。
「護符か何か持ってるな。だったら、大丈夫だろ」
何故、そのことを知っているのだろうかと驚きながら、秋帆はいつも鞄に入れている御守りを取り出した。
「実家の近くのお寺でもらった御守り。特別に書いてもらって」
「加護はあるみたいだな。アレから直接的な害はないだろ?」
まるで、何もかも見通しているような迷いのない言葉に、秋帆は頷いた。
「でも、昼夜関係なく壁や天井からすごい音が聞こえてきて、全然眠れないんだ。しかも、はっきり姿を見せないのも気持ち悪くって、精神的にも参ってて……」
美雨のアパートから戻ったその夜から、怪奇は始まった。鍵を掛けて出たはずの玄関の鍵が、開いていたのだ。
その時は鍵を掛け忘れてしまったのかと反省したが、次の日も、その次の日もそんなことがあり、泥棒を疑ったが盗られているものは何もなく、この生霊の仕業と結論付けた。
対策として、予備の御守りをドアノブに吊して以降、そのようなことは無くなった。
そして、その次に起こったのが騒音だ。最初はコツコツとノックのように壁を叩く小さな音だった。それが徐々に激しくなり、最近では殴り付けるような激しい騒音になっていた。
ところが、近隣にその音は聞こえないらしく、これまでのところ苦情は一件も来ていない。
「誰かに執着される覚えはあるのか?」
秋帆は原因と思われる黒の革手袋のことを簡潔に話した。美雨のこと、美雨の見た悪夢のこと。
そして、革手袋を見付けた経緯。
すべてを話し終えたあと、朱緒は何が言いたげに眉間を押さえていたが、ぐっと飲み込んでいる様子だった。
彼の言いたいことは痛いほどに分かる。何の力もない秋帆が下手に首を突っ込んだせいで、こんなことになったのだ。
「その手袋はどこにある?」
「気味が悪かったから、その帰り道に投げ捨ててしまって……」
「ハァ?! どこに?」
それまで落ち着いて聞いていた彼が、初めて声を荒げた。
「川に……」
「……面倒なことしたな。それを持って、お祓いに行っときゃ済む話だったろ」
「面目ない……」
心底煩わしげに、思いきり舌打ちされた。
まったくその通りなのだが、あの瞬間、余りの恐怖心に耐えられなかったのだ。いまにして思えば、あの時呪いの対象が美雨から秋帆へ移ったのだろう。
完全な逆恨みだ。
「どこの川だ?」
「一週間も前に捨てたから、きっともうないよ……」
「この一週間、雨が降ってない。探すだけ探してみるぞ」
秋帆は驚いて彼の顔を見た。
普段の態度を見るに、他人と必要以上に関わらないようにしている彼が、こんなことを言い出すとは予想外だった。
彼の考えていることがまるで解らず、秋帆は訊ねずにはいられなかった。
「どうして、そこまでしてくれるの?」
「言っとくが、オマエのためじゃない」
朱緒が釘を刺した。
「呪詛に使った道具は、そこにあるだけで邪気を引き寄せる。まだ流されてないなら、見付けて処分した方が良い」
「詳しいんだね」
「暢気なヤツだな。今日探して見付からなかったら、後のことは知らないからな」
「そこまでは観池くんを頼れないよ」
眉間に深い皺を寄せた渋面が、呆れたように秋帆を睨んでいた。しかし、その顔を怖いと思えず、頬が緩むのを抑えられない。
暢気と言われるのも当然だ。
しかし、自分の話を聞いてくれて、忠告までしてくれる朱緒に好感を懐くなというのは、無理な話だ。乱暴で厳しい物言いをするが、決して悪意はなく、良くも悪くも裏表のない言葉が心地が良い。
そして同時に、そんな彼に迷惑をかけてしまっていることに、後ろめたさも感じた。これまで『厄介事』を持ち込まれる側だった自分が、持ち込む側になっている。




