6 生霊
高い天窓にガラス張りの壁——自然光をたっぷりと取り込む構造の食堂は、キャンパス内の建物の中でも一番明るい。
しかし、その明るさの中にいても秋帆の心が休まることはなかった。暗闇にいるよりはマシ、という程度だ。
「……アッキー、大丈夫?」
友人から投げ掛けられた言葉に、秋帆はどう答えて良いか分からず曖昧に笑った。
「いや、その……うどん伸びちゃうよ」
「ちょっと食欲がないだけだから。早めの夏バテかな?」
「夏バテにしては早すぎるよ……」
心配してくれている晃生を目の前にしても、大丈夫だとは強がりでも言えなかった。
「今週ずっと体調悪そうだけど、さすがに長すぎだし病院行った方がいいんじゃないかなー?」
「……ありがとう、考えとくよ」
病院では治らないものだと言うことができない歯痒さに、秋帆は晃生に対して申し訳なくなった。原因ははっきりと解っている。
美雨に執着していたものの標的が、彼女から秋帆に移ったからだ。
いまも視界の端に、黒い影がちらちらと視えている。当然ながら、眼鏡を拭いてもその影が消えることはない。
そしてひとつ、呪いの正体について解ったことがある。
間違いなく、これは生霊だ。
付かず離れず、見せるのは影だけで姿を視せることなく、粘着質な執念でじりじりと秋帆の精神を削っていた。
数日すれば勝手に離れていくだろうと軽く考えていたが、死霊と生霊は違う性質を持っているらしく、あの日から八日経とうとしているが、秋帆から離れる気配はまるでない。
どうしたものか。お祓いに行かなければならないかも知れない——そう考えると、気が塞いだ。
未就学児の頃から、何度かお寺で徐霊を受けていたが、ごっそり体力を奪われて、その度に数日は寝込んでいた。
この歳になって寝込むことはないだろうが、それでも丸一日は家で休むことになるだろう。
大学の講義やアルバイトに穴を開けることを考えれば、行かずに済むならそれに越したことはない。かといって、このまま憑き纏われるのはもっと困る。
心苦しいがアルバイト先に休みの連絡を入れて、講義が終わったあとすぐに、お寺か神社に駆け込むべきだろうか。
後回しにしても良いことはないと理解しているが、それでもまだ躊躇している。
(どうしよう……)
ともかく、お祓い如何に関わらず、体力を温存しなくてはならない。そのためには、無理にでも食べなくては。
秋帆は箸を持ち、麺を口の中へ押し込んだ。
「あっ! アッキーくん、コーセーくん!」
愛らしく弾む声に呼ばれて、秋帆は晃生と二人してそちらを向いた。
「花澄ちゃん、さっきぶりー」
「さっきぶりー」
二時限目の授業で解散したばかりの花澄がこちらに手を振っている。秋帆と晃生も手を振り返した。
花澄と美雨、他に男女二人——初めて見る顔だ。写真同好会のメンバーだろうか──の四人組が自動ドアを抜けてくるところだった。
食券機の列に並んだ二人と別れた花澄と美雨が、こちらに歩いて来た。
明るいところで見る美雨は、まるで後光が差しているかのようだ。あまりの眩しさに、秋帆は目を細めた。
「秋帆くん、この前は本当にありがとう。あれから変なものも、悪夢も視なくなって、ぐっすり眠れるようになったの。秋帆くんのお蔭だよ」
一週間前と見違えるばかりに表情が明るくなった美雨は、深々と頭を下げた。
「そんな、僕は何も……」
「何もしてなくないじゃん! 謙遜しちゃって!」
花澄に肩を強く叩かれた。女子からこんな風に馴れ馴れしくされるのは初めてで、少しどぎまぎしてしまった。
「あの時は取り乱してて、ちゃんとお礼を言えなかったから…… 直接言えて良かった」
「僕も、お役に立てて良かったです」
彼女の呪いを秋帆が現在進行形で引き受けている訳だが、美雨の笑顔を見ていると我が事のように嬉しくなった。
人助けは決して悪いことではないのだ——助けられる力が充分にあれば。中途半端な人間が手を出すと、こうして痛い目に遭うだけのこと。
秋帆は、自分の力のなさが少し恨めしかった。
「お礼と言っては何だけど、もし、ポートレートが撮りたくなったら何時でも言ってね。すっごく格好良く撮ってみせるから、任せて!」
「えっ、それはちょっと……」
美雨は自信満々に拳を握るが、秋帆は及び腰になって言葉を濁した。
「アッキーくん、美雨先輩の腕を疑ってるの〜?」
花澄が不満げに頬を膨らませる。
勿論、美雨の腕を疑っている訳ではない。だが、秋帆の容姿は凡庸の中の凡庸。
格好良くきめた自分のポートレートを想像するだけで、顔から火が噴き出しそうになる。ちょっとした試練だ。堪えられそうにない。
「あのっ、僕じゃなくて、僕の故郷を撮ってもらえたらすごく嬉しいです。もし長野に来ることがあれば案内するので、是非、サークルのみんなで」
「それって、お礼になるのかな」
「勿論!」
秋帆が力強く答えると、ふふふ、と美雨が笑みをこぼす。
「じゃあ、絶対案内してね」
美雨は、去り際そう言って手を振った。秋帆も手を振り返す。
花澄もじゃあね、と言って美雨の横に並んで去って行った。
「……アッキー、いつの間にあんな美人と親しくなったのさ?」
晃生が脇腹をつついてきた。
「色々あって……」
「ふーん。元気ないのって、あの人のせいだったり?」
「……」
図星だ。
「恋の悩みとか?」
「ないない、それはない」
じじーっと、晃生の細い目が秋帆の心を見透かさんばかりに見詰めてくる。
「……だよねー。あんな美人に片想いなんて、付き合う公算がなさ過ぎて逆に一目惚れもできないよね〜〜」
「そんな悲しいこと言わないでよ。その通りだけども……」
二人して、何とも物悲しい溜め息を吐いた。お互い、彼女がいない期間=年齢の身の上だ。
傷の舐め合いと言えば哀れだが、雄ライオンとて若い頃は他の若い雄と群れを成して流浪するというのだから、これは男にとって必要な期間なのだ——恐らく。
秋帆は腕時計を見ると、残るうどんを慌てて啜った。
「アッキーは次も講義入れてるんだっけ?」
「うん」
「真面目だな〜〜」
「一年のうちになるべく単位取っとかないとね」
秋帆はトレイをカウンターに戻し、食堂を出た。小走りで次の講義棟に急ぐ。
身体が上下に揺れるたび、胃のなかのワカメうどんも上下した。少し気持ち悪い。歩いても間に合うが、一秒でも早く教室に入りたかった。
やっとの思いで大教室に入り、教室の奥を見上げた。
いつもの教室とは違い、大人数が収容できるよう奥にいく程高い段差になっている。
後ろの通用口近く——部屋は違うが、いつもの彼の指定席に青年がいることを確認し、秋帆は胸を撫で下ろした。
すると、彼が読んでいた本から顔を上げた。
(——あ、)
目が合ってしまった。高い席から睨まれ——否、普通にこちらを見ただけなのかも知れないが——鋭い眼光に射抜かれた秋帆は、思わず目を逸らしてしまった。
同じ学部だが機会がなく、彼とは一度も言葉を交わしたことがない。変なヤツだと思われていないかと気まずく感じたが、ここで声を掛けるのも不自然に思われて、秋帆は視線を外したまま前から四列目の窓際の席——いつもの席に腰を下ろした。
(大丈夫、僕の顔なんて覚えてないから、大丈夫……)
教育学部の一回生だけで、一五〇名在籍しているのだ。誰が全員の顔を覚えているというのだろうか。
その上、目立つ特徴のない顔──この顔に産んでくれた両親に、秋帆は感謝した。
深呼吸をして心を落ち着けながら、椅子に座った途端だった。全身の力が抜け、猛烈な眠気を催した。不眠だったこと、ワカメうどんの血糖値スパイク、そして安心感から。
講義まであと二十分だが、仮眠を取ろうか——しかし、そのまま熟睡してしまいそうな気がする。いっそ開き直って講義時間を睡眠時間に充ててしまおうかと考えたが、秋帆は真面目だった。
(講義の前に、バイト先に休む連絡しとかないと)
スマートフォンを開き、視線を落とした。
——そして、視線とともに目蓋が落ちた。




