30 一瞬の太陽 ≪三日目 早朝≫
廃団地の場所は知っている。大雅が子供の頃からある有名な心霊スポットだ。
当然、近付いたこともなかったが、日常的な風景の一部として遠くから見ていた。
そこへあまねが逃げ込んだらしい。
彼が逃げることは、到底赦せることではなかった。
きっと、動画を警察に見せても彼は大した罪に問われることなく、逃げおおせるに決まっている。
自分が彼を告発しようとしたときも、そうだった。
録音や身体の痣を見せたにも関わらず、彼だけには何のお咎めもなかった。彼の取り巻きが数名、厳重注意を受けただけで終わってしまったのだった。
しかも、その内容は体育のテニスの授業で、経験者が素人相手に本気になってやり過ぎたという理由だ。
いじめ行為として、認めてももらえなかった。
他にも証拠はあったが、公に出すことが憚られるような証拠で、大雅の自尊心と天秤にかけて、どうしても出すことができなかった。もし教師や親に見せても認められなかった時、己はきっと壊れてしまうだろうと、確信めいたものがあった。
大雅は門をよじ登り、廃団地に入った。
「どこ……?」
ところが、敷地内に入ったものの中は広い。三棟並ぶうちの、どの建物に逃げ込んだかすら分からなかった。
しかも、雑草雑木が野放図に伸びて道が塞がっているところもある。その上、この暗闇。建物の入り口が見えなかった。
そうしてしばらくうろうろしていると、後ろから来ていた秋帆に追い付かれてしまった。
「大雅くん、待って……! ここは危ないから、早く出よう」
「秋帆先生には……ッ」
関係ないです、と言いかけたときだ。すぐ傍に、軽い金属片のようなものが足元に落ちてきた音がした。
思わずそちらを向いた次の瞬間だった。空が一瞬明るくなったと思いきや、どすんと真横に何かが落ちてきた。
にわかに明るくなる足元に、慌てて振り返ると地面で何かが燃えている。
それはまだ、かすかに動いていた。
――人間だ。
「あまね……?」
その名前を口にしたのは、無意識だ。
大雅には、なぜだかそれがあまねだと解ってしまった。全身を炎に包まれて、何も見えないにも関わらず。
「……は、ははは」
呼気とともに、声が漏れ出た。
それが笑いだと彼自身が気付いた途端に、もう抑えきれないものとなっていた。
「燃えてる! 燃えてる! あはははははは!! 燃えてる! ざまあみろ!! あはっ、あはははははははは! 燃えろ! もっと、もっと、燃えろ!」
狂ったように笑う大雅を、秋帆は呆然とそれを見ていることしかできなかった。
四階、四〇二二号室を見上げると、赤猫の気配は消えていた。その部屋どころか、この団地内のどこからも赤猫の気配が突如として消え去っている。ただ、肉を焼いたような赤猫の残り香だけが、目の前で燻ぶる焼死体の匂いと入り混じり、周囲に漂っていた。
赤猫の塒から落ちた彼――あまねは、やがて炎がちいさくなるとともに焼け残って、地面に遺体を残していた。
だが、魂を焼き尽くされてしまったのか、後には死霊の影も形もない。
「……秋帆先生、もうこれじゃ警察もこいつを捕まえられないですね」
東の空が、白み始めている。
晴れ晴れとした大雅の笑顔が、明けゆく空の下でまばゆく見えた。
秋帆は返事をすることができず、彼の顔を見つめていることしかできなかった。
二号棟の玄関口から、模造刀を手にしたままの朱緒がゆっくりと現れた。
彼の姿を見た途端、秋帆は思わず駆け寄った。
「……観池くん」
「間に合わなかった」
すこし離れたところに倒れているあまねの遺体を見た朱緒が、小さく溢した。
「彼が死んだのは観池くんのせいじゃ……」
「あのガキは自業自得だ」
侮蔑も、同情もなく、平坦な声で返された。明確に、彼の死は知ったことではないと言っている。
「赤猫はガキを胎にして、分火しようとしていた」
「胎……?」
「種火を仕込み、仔を産ませる胎だ」
「――ッ!」
そこまで言われて、秋帆の彼自身の見立てが誤りであったことに、ようやく気が付いた。
猫のマーキング行為は、何も雄猫同士の縄張り争いだけではない。
「交尾相手を、探してたのか……」
火に執着するあまねは、波長の合う相手として赤猫に見初められてしまったのだろう。
赤猫のこれまでのマーキングは敵対行動ではなく、雌猫のフェロモンを嗅ぎ取った求愛行動であったのだ。
「ただの交尾相手ならまだいいが、アレが産ませるのは炎だ。せいぜい、他より長く燃える薪程度にしか思ってなかっただろうがな」
「祓えたの……?」
「力づくで祓うには祓ったが……」
そう言った朱緒の顔が苦々しそうに歪んで、視線が移った。
本来、赤猫は塒ごと浄めなければならないもの。
とはいえ、今日は緊急事態だった。あのまま見過ごして、仔猫を放つ訳にはいかなかった。
祓うことは「払う」こと。火を払い除けたとしても、容易に消えるものではない。しかも、得物は何の加護もないただの模擬刀だ。陰陽五行に於いて、金と火は相剋、赤猫相手に使うべきものでは決してない。尋常では、模擬刀で赤猫を祓うようなことはできないが、朱緒には蛇神の加護があった。
手を払う風では消えぬ火も、暴風雨に曝されればひとたまりもない。そういう荒事で火を鎮めたが、当然綺麗なやり方ではない。
朱緒の視線の先には、大雅の傍にいる猫の死霊――ミケが、少年の足元で毛づくろいをしている。
「……火の粉が飛んだ」
その上、得物まで損ねてしまった。
朱緒の準備不足と見通しの甘さ、ひとえに未熟さが招いた事態だ。
「普通の猫の死霊に視えるけど……」
いまはまだ赤猫ほどの穢れは視えない。
「あれは、埋み火だ」
「それなら、いまのうちに」
秋帆が言いかけたところで朱緒の手の模擬刀を見て、その用をなせないことに気付いたようだった。
模造刀の刀身は歪に捻じ曲がり、真っ赤な錆に覆われている。軽く触れただけでもぽっきりと折れてしまいそうなほどに劣化していた。
「……このまま、燃え尽きてくれればいいけどな」




