28 ふたりの少年 ≪三日目 早朝≫
微睡のなかで、猫の鳴き声を聞いた。
自然と目蓋が開き、焦燥感のために心臓が早鐘のように打っている。
「……いまの、聞いた?」
真っ暗闇で見えないが、床に敷いた布団の中にいる朱緒も目を覚ました気配があった。
「ああ、赤猫の鳴き声だ」
秋帆は慌てて、枕もとに置いていたリモコンで部屋の明かりをつけた。スマートフォンの時計を見れば、時刻は午前三時五十七分。
明かりがつくなり朱緒は素早く立ち上がると、ジャージのポケットにスマートフォンを入れ、模擬刀の入っている鞄を肩に担いでいた。
眼鏡を掛けた秋帆も一拍遅れてベッドから降り、スマートフォンと御守りをスウエットのポケットに押し込んだ。
玄関ドアを静かに開け、アパートの階段を速やかに駆け下りる。
空はまだ暗く、街灯の明かりだけが街を照らしている。
「……どこだ?」
前後左右を見回すが、朱緒では紅緒のようにはいかない。
「観池くん、とりあえず、廃団地の方に向かってみよう」
「そうだな」
スマートフォンで地図を確認しながら、駆け足で住宅街を走った。
「このまま警察に遇わないといいけどな」
「どうして?」
ただでさえ、連続不審火事件が続いているのだ、警察の巡回に遇ってもおかしくはない。
だが、マッチもライターも持っていないふたりには関係のない話だ。
「午前四時に理由もなくこんなもの持って歩いてたら、俺が捕まる」
朱緒は肩にかけた鞄を軽く持ち上げた。中には模擬刀が入っている。理由はあるにはあるが、まさか赤猫から身を守るためなどとは口が裂けても言えない。
それこそ、頭のおかしい人間扱いされるだろう。
「もし、警察に職質されそうになったら、二手に分かれて走って逃げるぞ」
「……分かった」
幸い警察に鉢合わせることはなく、このまま走ればあと十五分ほどで廃団地に着くというところで、ふたりの足が同時に止まった。
――赤猫の気配だ。
「近いな……」
丁字路の右側にじっと留まっている赤猫の気配がした。朱緒が塀の陰から、一瞬だけ道の向こうを覗き込む。
「……誰かいる」
誰か、ということは生きた人間だろう。秋帆も塀からそっと顔を覗かせた。二十メートル先、向こうの通りの生垣の傍で、黒い服の小柄な人間がこちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
そして、その傍にいる赤猫でも何でもない三毛猫の死霊に、秋帆は愕然とした。
「まさか、彼が放火犯……?」
「とりあえず、捕まえてみるか」
傍らの猫の死霊に気付いてるのかいないのか、朱緒は冷静に言葉を返した。秋帆としても、どんな事情があろうと止めないわけにはいかない。
幸い、彼がこちらに気付く様子はない。朱緒は塀から身を出すと、足音を殺して彼に近付いた。
最初、朱緒の接近に気付いたのは猫の死霊で、うろうろと落ち着きなく少年の傍を歩いていたが、少年がそれに気づく様子はなく、やがて身を低くして彼の後ろにすっと隠れていた。
「ここで何してんの?」
少年が背後の小石を踏む音に気付いた時には、朱緒に右腕を掴まれていた。
あっと、声を上げた少年の手から落ちたのは、ライターでもマッチでもなく、スマートフォンだった。
「……放火犯じゃないのか」
スマートフォンが落ちた音に、反応した別の影があった。
防犯灯の明かりが切れていて気付かなかったが、通りの先のゴミ収集場にも人間がいたのだ。
その影が、咄嗟に走り出した。
少年と朱緒は、その足音にはっとして顔を上げた
「……追わなきゃ」
少年が逃れようと、身を捩る。しかし、朱緒はたやすく彼の身体を引き戻した。
「橘、コイツを頼む。俺はアイツを追う」
「わ、わかった」
ふたりに駆け寄ってきていた秋帆は朱緒に代わって、少年の腕を捕まえた。
秋帆の顔を見た少年が、ことさらに驚いてのけぞっている。まさか、こんなところで顔見知りに出くわすとは思ってもいなかったのだろう。それは秋帆も同じ心境だった。
その間に朱緒と先を行く人影は、あっという間に住宅街の角に消えていった。
取り残されたふたりは無言のままに見つめあっていたが、ようやく秋帆から口を開いた。
「……大雅くん、ここで何をしていたの?」
秋帆は落ちていたスマートフォンを拾い上げた。大雅は慌てて制止しようとしていたが、結局は動けない様だった。
「……動画、撮ってたの?」
スマートフォンは、まだ録画中の画面のままになっている。
怒られると思っているのか、長い前髪で陰る彼の瞳が下を向いて怯えていた。
「ごめん、再生させてもらうね」
◇
彼は息を切らしながら、夜明け間近の街を疾駆していた。
真っ直ぐ塒に戻るようなヘマはしない。追っ手を撒くまでは反対方向に走って逃げることにしていた。
(顔は見られてないから、大丈夫だ。それに、もしいま捕まっても今日は何もしてない。どこかでライターと灯油を棄てて、あいつをやり過ごせば問題ない)
気配に気付いたのは、灯油を撒こうとした瞬間だった。まさに間一髪、こんなことで躓いて将来を諦めたくない。
『遍く人々に日の光を届けますように』――両親がそう願って、名付けてくれた。
彼はその希望に応えるため、将来は医者になって太陽のように人々から仰ぎ見られる立派な大人にならねばならない。
だから、そのように必要な勉強をして、努力を積み重ねてきている。
大丈夫だと確信していたが、それでも彼は焦燥感を覚えていた。
己の足で走っているはずなのに、何かに引き寄せられているような感覚に陥っていた。
彼の足は、これほど疾かっただろうか?
後ろにいた気配を、みるみる引き離していった。足だけではなく、全身がしなやかに、軽くなっていく。
一歩一歩駆けるごとに、焦燥感から一体感へと変わっていく。
身体が点火して、炎を纏っているように全身が熱かった。それすらも快感として、脳髄が融けていく。
夜明けが近くなって、空が明るくなっているのだろうか? 暗闇を走っていたはずなのに、周りの景色がはっきりと視える。
かつてない万能感に、彼は昂っていた。気付けば、彼を追っていた男の姿は消えている。
このまま、どこまでも行けると思いながら、錆びた門扉を軽々と飛び越えた。
まるで自分の家に帰ってきたような安堵感があった。
――さあ、戻らなければ。
階段を跳ねるように昇ると、四〇二二号室へと滑り込んだ。
「……あれ?」
部屋に入ると、一匹の猫がいた。
皮が剥がれ落ちて、真っ赤な火傷の皮膚を晒している。
痛がりもせず、平然と座っている。
猫が、こちらを見ていた。
――なぜ、自分はこんなところにいるのか?
彼が我に返った瞬間、それまで肉体の限界を超えて酷使していた全身に痛みが走った。
あまりの痛みに立っていることができず、埃まみれの廊下へ、俯せに倒れ込んでしまった。
呼吸器も重い負荷に耐えられず、喘ぐようにして息をした。
――全身が痛い、息が苦しい、
倒れて動けない彼の頬を、猫の濡れた舌が舐めている。
その瞬間だった。
彼の内側から、炎が噴き出すような感覚を覚えた。下腹部が焼けるように熱い。
熱が全身に広がり、大きくなっていく。




