26 竈のなかの小枝 ≪二日目 夜≫
やがて、数人の集団がどかどかと足音を立てながら、下から上がってくる気配があった。各部屋のドアを開けている音が近づいてくる。
「ここじゃない」だとか、「開かない」だとか、そんな会話がかすかに聞こえる。そして十分も経たず、四〇二二号室に彼らが乗り込んできた。
彼らは楽しげに笑いながら話をしていたが、ベランダにいる秋帆にはすべてを聞き取ることはできなかった。
ふと、焦げ臭い匂いが鼻腔をついた。まさか赤猫が、と思いきや、彼らのうちの誰かが煙草に火を付けたようだ。ガラス戸に小さな赤い火が映っている。
火災で人が亡くなっているところで、よくも煙草など吸えるものだ。不謹慎にもほどがある。
「……赤猫が、怒ってる」
秋帆の耳元で、怯えた紅緒の声が囁く。
その瞬間、身を引き裂くような赤猫の鳴き声がガラス戸を震わせ、明確な殺意が部屋に充ちた。
ベランダに出ているふたりですら、あまりの圧に息を飲んだ。
そして、間もなく異変が起きた。ガラス戸に映る火が、何の前触れもなく大きくなった。そうかと思えば男のうめき声が聞こえて、人間ほどの大きな松明がベランダの方に激しくうねりながらやってきた。
そして、部屋の奥から次々に上がる悲鳴。
「隣に退避しよう」
そう言ってふたりが立ち上がった瞬間だった。こちらの方に動いてきた松明がガラス戸越しに、ふたりをはっきりと照らし出した。
そして、秋帆は気付いてしまった。
この匂いは肉が焼ける匂いで、その松明が生きた人間であることに。
目が合った、と思った刹那、秋帆の身体が無意識に前に――松明の方へ歩みだしていた。
松明も両手を突き出して、助けを求めるようにふたりへ近づいてくる。その間、わずか二メートル。
「橘くん、駄目! もうあの人は助からない!」
「でも、でも、人が……!」
「行かせられないよ! 君を守るよう頼まれてるんだ……!」
紅緒に肩を抱えられながら、隣の部屋に移動した。松明はその後を追っては来ず、秋帆は思わずその場で腰を抜かしていた。
しばらくの間、隣の部屋では玄関の扉を叩く音や悲鳴、呻き声が響いていたが、十分もしないうちに静かになった。
それから赤猫が落ち着くまでの数十分、ふたりは静かに待っていた。
「……もう大丈夫。戻ろうか。直視しないように気をつけてね」
「うん……」
秋帆はキャップのつばを下へずらし、視線を足もとへ落としながら紅緒の後に続いた。
ベランダから和室に戻ると、窓のすぐ側で今なお炎に身を焼かれながら苦しんでいる死霊の姿があった。
それから、ダイニングキッチンでのたうち回っている死霊が一体、さらにその先の風呂場と玄関で一体づつ。
玄関扉を必死で開けようとしていたのだろう。ドアノブを掴んだまま悶えている。
秋帆がドアノブを回すと、すこし重かったが簡単に扉は開いた。
ドアノブはまだ人間松明の熱を残しており、玄関で息絶えた彼が生きていた頃の、数少ない名残りとなっていた。
だが、それも数十分のうちに冷めるもの。
部屋のなかには合計で四体の男女の姿が視えた。自分たちが死んだことに気づいてさえいない。
「死体がないね。骨どころか、匂いまできれいさっぱり焼き尽くされてる」
紅緒が静かに呟いた。
あまりにも呆気なく失われた命に、秋帆は呆然としていた。現実感が伴わず、悲しみの感情が湧いてこない。せめて遺体が残っていれば、嫌でも現実として直視できたのだろうが、それもできない。ただただ死霊が四体、部屋のなかに残されただけ。
しかし、緊急事態を目の前にして、どうにか言葉を絞り出した。
「警察に電話……」
「やめた方がいい」
震える手でスマートフォンを取り出そうとした秋帆を、紅緒が冷静に静止した。
「死体があるならともかく、警察に何を話すの?」
「でも、人が死んだんだよ……?」
秋帆も、頭では理解している。「目の前で人間が自然発火して消えた」と言っても、彼らの頭がおかしいと思われるだけだ。
「そうだね。でも、この部屋であの人たちが赤猫の機嫌を損ねちゃったんだから、仕方ない」
紅緒は哀しそうな表情をしながらも、淡白に仕方ないと秋帆を諭した。深い深い諦観の念が瞳に浮かんでいる。
これ以上秋帆がごねても、時間の無駄だ。そもそも、赤猫相手に人間の倫理観など通用しない。自分の無力さと、やるせない感情を胸にしまい込みながら秋帆は顔を上げた。
「加護のある紅緒くんはともかく、僕は何ともなかったのに、何で彼らだけ」
「赤猫を怒らせたからだ」
そういえば、彼らが火に巻かれるすこし前、紅緒が言っていた。
「怒らせた原因を上げるなら、この部屋に火を持ち込んだせい」
「そんな……」
理由を求める秋帆の瞳に、紅緒は首を振った。
「何でそんなことでここまで怒ったかなんて理屈は、俺でも分からないよ」
獣と人間、生き物と死霊。まるで交わることがないモノの考えなど、生きている人間に理解できる道理があるはずもないというのか。
思考を放棄したくはないが、分かることばかりではない。
「……それにしても、骨も残さず焼き尽くせるなんて。外ではこんなことなかったのに」
ふたりがこの部屋を出て、わずか三十分だ。
どれほど高性能な焼却場であろうと、たった三十分で人体を跡形もなく焼き消すことなど不可能だろう。
「ここは赤猫の塒――領分なんだよ。間違いなく現世に存在してる部屋だけど、長年こびりついた呪いのせいで呪物化して、すこしだけ幽世に傾いてる」
「かくりよ……?」
「噛み砕いていえば、異界。この四〇二二号室の中は、赤猫が敷くルールに支配されてるってこと。他のモノと奪い合う縄張りとは、訳が違う」
「……」
つまりここは、赤猫の竈の中という訳だ。
そこへくべられる、か細い枝の自分を想像して、秋帆は心が冷めていくのを感じた。
「……橘くん、帰ろうか。もう、ここで俺たちができることはないよ」
ふたりは無言のままに部屋を出た。階段を降りる時も、団地を出て秋帆のアパートへ戻る道中も、一切の会話がないままだった。
「……じゃあ、俺はもう帰るね」
「うん、今日はありがとう」
「あの……橘くん、気に病まないようにね」
「分かってるよ」
まるで痛々しいものを見るように、紅緒の表情が曇っている。あまりに心配そうにこちらを見ているので、秋帆は笑みを返した。
一か月半前にも、朱緒に似たようなことを言われた。やはり双子だ、似たところがある。
「咒の領分でああなってしまったら、どんなに優秀な霊媒師だって、どうすることもできないから」
今夜、あの四〇二二号室で起こったことは、彼の手に余る摂理の世界の出来事だ。秋帆も頭では理解していたが、考えても考えても感情の整理ができなかった。
世の中には自分自身だけの力で、どうにもできないことが多すぎる。
「心配かけてごめんね。本当に大丈夫だから」
「……」
「紅緒くんも、気を付けて帰ってね」
「……うん、ありがとう。ばいばい」
まだ何か言いたげな紅緒だったが、小さく手を振って離れていった。
紅緒の背中が見えなくなった途端、一気に緊張の糸が切れてしまった。
全身の倦怠感と疲労感、そして感情が一気に溢れてきて、気付けば彼の両目から大粒の涙が溢れていた。
底知れぬ無力感に胸を潰されて、感情が頭の方へ押し出されていく。喉の奥から出る嗚咽を噛み殺しながら、それでも涙と鼻水は止まらない。
いくら考えても、あの場で自分ができることは何もなかった。何もなかったのだ。




