25 赤猫の塒 ≪二日目 夜≫
午後二十時ちょうど。
空はすっかり暗くなっていた。街の明かりで空の端はオレンジ色に染まっている。
廃団地の周囲に人通りはまったくなく、忍び込むには絶好のタイミングだ。
秋帆と紅緒の《べにを》ふたりは、団地の封鎖された柵を越えようとしていた。
まずは紅緒が軽々と乗り越えて、先に乗り越えた彼に模造刀の鞄を手渡し、秋帆はどうにか腕力で柵を上った。
紅緒は勝手知ったる我が家のような足取りの軽さで団地内を横切って、二号棟の玄関口まで迷うことなく進んでいった。
その間も四方八方から死霊からの視線を受けていたが、紅緒がいるために秋帆には近付くことができないようだ。
これも、彼が言っていた加護のうちなのだろうか。
ふたりはそれぞれフラッシュライトを手に持つと、足元を照らした。外は月明りで移動できたが、屋内は真っ暗でそういう訳にはいかない。
エレベータはあるものの今となっては動いているはずもなく、慎重な足取りで階段を上っていった。
外壁への落書きは控えめだったが、中はいたるところにスプレーやペンキなどでグラフィティやイラスト、罵詈雑言が書かれている。
完全に不良の度胸試しの場と化していた。
「本当に勝手に入って大丈夫なのかな……」
「まだ言ってるの? 真面目だなあ、橘くんは」
紅緒には呆れられたが、後ろめたいものは後ろめたいのだ。どんな所にもずかずか入っていくことができる彼の図太さがすこし羨ましい。
とはいえ、紅緒には不法侵入しているという自覚も少しは持っていてほしい。
「四〇二二号室――ここだよ」
紅緒が立ち止まった部屋の前、すでに玄関扉が半開きになってた。
そこから溢れ出すように黒い煤のようなものが扉の周りにこびりついている。まるで禍々しい瘴気が充ちる地獄の入り口のようだ。
「気が重いな……」
「橘くんがいつも気にかけていることをしなければ大丈夫」
紅緒は鞄からをキャップを取り出すと、秋帆の頭に目深にかぶせてくれた。
「いい? 入るよ」
秋帆は勇気を振り絞り、紅緒に続き部屋へと足を踏み入れた。
ところが入った瞬間、空気の悪さに吐き気を催した。これは、赤猫が引き連れていた黒い炎そのもの。
――熱いのは痛い、爛れるのは痛い、焼けるのは痛い、痛い、いたい、イタイ、
こんなところの空気を、自分の肺に取り込みたくない。秋帆は思わず、両手で口と鼻を塞ごうとした。
「息をしても大丈夫だよ」
ところが、紅緒にその手を優しく握りしめられた。
「ゆっくりね、呼吸を乱さないで。大丈夫だから」
紅緒が秋帆をなだめるように、柔らかい声で語りかけてくる。背中を撫でられて、恐る恐る息を吸って、吐いた。
喉を突き刺す異臭も、肺が爛れるような熱さも感じない。すこしの焦げ臭さと、黴の匂いがするだけだ。
(大丈夫、気のせいだ……)
ゆっくり、ゆっくりと心拍を落ち着けていく。
「……ごめん、もう大丈夫」
「橘くんは感受性が高いね。この部屋に飲まれないように気をつけて」
紅緒は前を向き直すと、土足のまま廊下を進んだ。
玄関周りはところどころ煤で黒くなっている。
入って左手は風呂やトイレなどの水場。火であり、猫でもある赤猫が近づく場所ではないのでスルーした。
右手は部屋のようだが、何も気配はない。
正面には廊下が伸びており、その先はダイニングキッチンのようだ。家財はそのまま残されており、大半の皿は割れて足の踏み場もないほど床に散乱し、破片は廊下まで続いている。
さらにその奥――気配を感じた。
「右奥の部屋かな…」
「うん、警戒してるけど、興奮はしてない」
ふたりは注意しながらゆっくりと奥へ入っていった。一歩踏み出すごとに、足元で何かが割れる音がする。
ダイニングキッチンを進んでいくと、左手に開けっ放しの扉の洋間、右手に焼け落ちた天井と襖の和室の二間があった。
赤猫は真っ黒に焼けた和室の、押し入れの中に隠れ潜んでいた。姿は視えないが、気配が在る。
当然、あちらもふたりの気配を察知して、こちらを探っているようだ。
赤猫を刺激しないよう慎重に和室へ入った。歓迎はされていないが、いますぐ襲われる気配もない。
しかし、和室のなかは怨嗟と死穢に澱んでおり、気を抜けば呼吸困難に陥ってしまいそうだ。
「ここが焼けたのは十年以上前だ。そのときにお婆さんと猫が一匹、火災で亡くなってる」
真っ黒に焼けた畳を見ながら、紅緒は断言した。
「お婆さんはいないね」
「そんなに苦しまず亡くなったんだと思う。でも、猫の方が相当苦しんで死んだみたいだ。玄関扉を引掻いて、そこで息絶えた」
ここから出られず煙と火に撒かれて死んだ二人を思うと、秋帆の胸が痛くなった。
しかし、同情してはいけない。秋帆は頭を振って思考を切り替えた。
「十年も外に出てくることがなかったのに、いまさら何でこんなことになったんだろう」
「逆だよ。十年経ったからだよ」
「……もしかして、十三年生きたら化け猫になるってアレ……?」
「ご明察」
紅緒は困り顔で微笑んだ。
「この部屋に迷い込んできた死霊を食べて怨霊になって、十年以上力を蓄え続けて赤猫に転化してる」
「いったいどれだけの死霊を食べたらそんなことに……」
ただでさえ死霊を呼び込む廃墟だ。三棟建つ団地の何百室とある部屋のうちのひとつとはいえ、陰気な場はさらに死霊を引き寄せる。
「ぐちゃぐちゃに溶け合ってて、俺にも視えない。でも、赤猫に為ってからはまだ二年くらいだね。それから焼き殺した人の数は十」
紅緒は淡々と数字を羅列していく。冷たいようだが、彼なりに感情移入しないための対策だ。
「……ところで、呪具はどこかな」
室内に入ってから、秋帆もできる限り霊視していたが、それらしきものを見つけられずにいた。というか、部屋そのものに赤猫の気配が充ちていて、秋帆では視分けがまったくつかない。
「いまさら、なに言ってるの?」
紅緒がきょとんとしている。
何か変なことを言ってしまったようだ。
「この部屋そのものが赤猫の依代――言わば、呪具になってるんだよ」
「え……?」
そう言われた瞬間、秋帆の総身に鳥肌が立った。
部屋に入るとき、覚悟のうえで足を踏み入れたが、それは危険に対するもので、ここが咒の依代そのものであると知り、沸き上がってきた本能的な嫌悪感と拒絶感は御しがたいものだった。
思い返してみれば、朱緒も紅緒も、呪具とは言わず、塒と言っていた。
彼らは最初から解っていたのだ。
それまで心配そうに秋帆を見ていた紅緒が、窓の方を向いた瞬間、険しい顔つきになった。
「……誰か来る。隠れよう」
「まさか……」
「そのまさかだね。だから、早めの時間にしたのに」
「どうする? もう出る?」
「出て鉢合わせしたらまずいから、取り敢えずベランダで様子見しよう」
ベランダに出ると、左右とも仕切り板はすでに破壊されており、ベランダ伝いの移動は可能だった。隣の部屋の窓の鍵、玄関の鍵も開いていることを確認して逃走ルートを確保する。
「打ち合わせ通り、いざとなったら俺が目くらましするから、橘くんは俺に構わず逃げてね」
「全力で走ります」
紅緒を前に、ふたりはベランダの室外機の陰にしゃがみこんで、息をひそめた。
月の明かりで、紅緒の横顔がかすかに浮かび上がっている。そうして真剣な表情をしていると、朱緒と瓜二つだ。




