3 美雨先輩
アルバイト先を出たのは十九時十五分。
スマートフォンの通知を確認すると、花澄からのメッセージが入っている。アパートに戻る時間もないので、近場のファーストフード店に急ぎ足で入った。
バーガーセットを頼み、ポテトを摘まみながらメッセージの返信を打っていると、秀からのメッセージが入ってきた。そちらにも返信していると時刻は十九時三十分を少し回っていた。
待ち合わせ場所は普段使わない路線にあるため、スマートフォンで時刻表を調べた。今出れば充分間に合いそうだ。
秋帆は席を立ち、ごみをダストボックスへ捨てると早足で店を出た。
待ち合わせは怪奇を視たという『美雨先輩』のアパートの最寄り駅。改札を抜けると、花澄と秀の姿がすでにあった。
遅刻していないにも関わらず、花澄は不機嫌な表情を露にしている。
「待たせちゃってごめん」
すぐに謝るが、やはり花澄は不服そうに眉を寄せていた。
「アッキーくん、秀くんにも声掛けたの?」
「えっ? 花澄ちゃんが呼んだんじゃないの?」
ふたりで顔を見合わせ、目をしばたかせているところに秀が無神経な声を上げた。
「俺も先輩のこと心配だったから、花澄に呼ばれたって言って、秋帆から聞き出したんだよ」
「へえ〜〜 そうだったんだ〜〜……」
花澄はあからさまに嫌そうな顔をした。
秀には、たまにこういう強引なところがある。悪気はないのだろうが、周りはその横暴さに振り回され困惑することが多い。
「先輩の家に行くのに手ぶらじゃ何だし、何か買ってこーよ」
花澄が駅に併設されているコンビニを指差した。仲間連れとは言え、独り暮らしの女性の部屋に長居するつもりはなかった秋帆は、困惑しながら店に入った。
「美雨先輩、チョコが好きなの」
言いながら、チョコレート菓子以外のものも買い物かごいっぱいに入れている辺り、花澄の好きな菓子も選んでいるのだろう。秀と目配せしながら、こっそりお互いのqayqay残金を確認をした。
「あっ! 二人ともコンビニでトイレ済ませてね! 先輩にトイレ掃除なんかさせたら、わたしが怒るんだから!」
突然、何を言い出すかと思いきや、花澄は秀の背中をぐいぐい押した。
「自分ん家ならともかく、ちゃんと他所の家では座ってしてるっつーの……」
「うっそ〜〜! ストーカー騒ぎのとき、写真部みんなが当番で先輩の送り迎えしてたじゃん? その時、男子が使った後のトイレ汚かったって、先輩困ってたもん」
「それ絶対、鷹先輩じゃん……」
秀はぶつくさ言いながらも花澄に逆らえず、共用トイレに入っていった。
そして彼の姿が見えなくなったところで、花澄がくるりと秋帆の方を向いた。
「秀くんが言ってたのホント?」
トイレの秀に声が聞こえないよう、声を抑えて花澄が尋ね掛けてきた。
「うん…… 秀くんもちょっと強引だよね。花澄ちゃんに断ってから合流すれば良かったのに」
「わたしに聞いたら、断られるの分かりきってたからだよ」
どういうことかと、秋帆の頭に疑問符が浮かぶ。
「同好会の男子みんなそうだけど、秀くんも美雨先輩にガチ恋してるのバレバレだし。そんな狼を美雨先輩の部屋に上げられる訳ないじゃん」
「……なるほど」
かなりご立腹の彼女に、秋帆はたじろいだ。
「もし秀くんが理由付けて先輩の部屋に泊まろうとしたら、絶対アッキーくんが引っ張って帰ってね!」
「努力するよ……」
秀と入れ替わりで秋帆はトイレを済まし、花澄が改めて断りの連絡を先輩に入れたあと、三人は駅の構内を出た。
コンビニや二十四時間営業のドラッグストア、なるべく灯りが多いところを通りながら住宅街を十五分ほど歩くと、街灯の灯りだけでも分かるほどに年季の入った三階建てのアパートに着いた。
真緑色をしたモルタルの壁には黒い蔦が走り、今にも崩れ落ちそうな罅のように見える。
「雰囲気のあるアパートだね……」
「家賃が安いんだって。ストーカーのことがあったし、いま引っ越しの物件探してるんだけど、なかなか条件に合う部屋がないらしくて……」
「しかもここ、オートロックじゃないよね」
独り暮らしかルームシェアかは分からないが、女性が暮らしているにしては些か無用心ではないかと、心配になった。
「そうなの! みんな、そこも心配してるの! 美雨先輩、無用心過ぎて本当に放っとけないよ~~!」
管理人室の前を通り過ぎ、アパートのなかに入った。電灯は最低限しかつけられておらず、街灯のある外と変わりないほど薄暗い。
しかもエレベータは設置されておらず、三人は階段を登った。電灯のカバーが薄汚れているせいで、足元が暗い。しかも、カバーの下に溜まっている黒い影は、虫の死骸だろう。
雰囲気があるといえば聞こえは良いが、要するに不気味な気配が漂う古いアパートだ。好事家には堪らないだろうが、その趣味のない秋帆からすれば、幾ら家賃が安いとはいえここに住む『美雨先輩』とは如何なる変人かと、不安になるのは無理からぬことだった。
「……なにか、いる?」
前を行く花澄が不安そうにこちらを振り返る。『美雨先輩』を慕い、怪奇を視たというアパートまで来た彼女だが、ここの雰囲気は苦手なようだ。
「気になるようなものは視てないよ」
「ふ〜ん。ユーレイってそんないないもんなんだな」
「……」
後ろから秀が詰まらなさそうにひとりごちる。
秋帆は訂正するかどうか迷った。
ここまでの道中、何体か霊体を視ていたが、日常的に視る死霊ばかりで、あからさまな害意を持つものはいなかった。
特にこの地域の霊の数が多いということはなく、さりとて少ない訳でもなく、ごくごく平均的な遭遇率だ。
このマンションに限って言えば、こちらから関わらなければ無害の人間霊と玄関で擦れ違っただけだった。——もっとも、部屋のなかのことは、入ってみるまで解らない。
「突き当たりの部屋だよ」
階段を上がりきると左に向かって廊下が延びていた。部屋数は五つ。右手にも棟はあるが別階段になっており、一階に下りなければ渡れない構造になっている。
八時過ぎだというのに、灯りが点いている部屋は少ない。しかし、扉の前を通り過ぎながら表札を目で追うと、意外にも空き部屋は皆無だった。家賃の安さは不気味な雰囲気にも勝るらしい。
そして、花澄が立ち止まった一番奥には『日下部』という表札が掛かっている。
『日下部 美雨』——それが先輩のフルネームであるようだ。
「美雨先輩、花澄です」
花澄がインターホンを鳴らすと、すぐに解錠する音がして扉が開いた。
「花澄ちゃん、来てくれて有難う……!」
——とても在り来たりな言葉だが、秋帆はその女性に目を奪われた。
逆光のなかでも形の良さが分かる鼻梁と頤の稜線、濡れ羽色をした癖のないセミロングの髪──影になって横顔しか見えないというのに、目が離せない。
扉の後ろ、隠れるようにひっそりと立つ姿から、怯えと窶れが見てとれる。
しかし、それは彼女の美しさを損ねることなく、その儚げな影が美しさを引き立てる魅力のひとつとなっている。
「美雨先輩、この子が連絡した霊感少年の橘くん」
見蕩れてしまっていたところ、花澄に腕を掴まれ前に押し出された。美雨との距離が、五十センチほどになる。
——近い。余りの近さに、視線が泳いだ。
間近で見ても、彼女は美しかった。秋帆を見詰める垂れ目がちな瞳に長い睫毛が被さって、見る者の庇護欲を掻き立てられる。
写真同好会『ガチ恋勢』の気持ちが、いままさに理解できた。
「は、初めてまして、橘です。花澄ちゃんとは同じ教育学部の一年で…… お役に立てるか分かりませんが、今日は宜しくお願いします」
秋帆の緊張を見透かしたのだろう、それまで怯えるばかりだった美雨の表情が、ほんの少し緩んだ。
「日下部です、こちらこそ宜しくね。花澄ちゃんと秀くんと同じ写真同好会の先輩で、文学部二年です。今日はわざわざ来てもらって有難う…… 狭い部屋だけど、どうぞ入って」
肩に掛かっていた彼女の髪が胸に垂れた。黒絹のような髪だ。さらさらと流れ落ちる澄んだ音が聞こえるほどの近さに、秋帆の胸が高鳴った。
「アッキーくん、先輩に見蕩れてないで早く入ってね〜〜」
「あ、お邪魔します!」
背中を押されて玄関に入ると、つんとした異臭が鼻を突いた。お酢の匂いだろうか。予想とは掛け離れた部屋の匂いに首を傾げた。
「やっぱり匂い気になるかな。クローゼットに現像室作ってて、停止液の匂いなの」
美雨が恥ずかしそうに笑う。微笑むと、少し幼く見えた。
「先輩はすごいんだぞ。フォトコンで幾つも賞を貰ってるんだからな」
「秀くんが偉そうに言うことじゃないじゃん」
自分が言えなかったことが悔しいのか花澄が不満そうに唇を尖らせる。
「全然すごくないよ。入賞は何度かしてるけど、大賞をもらったことは一度もないから」
謙遜なのか、一番にはなれないコンプレックスからなのか、自信なさげな美雨が首を振る。
「そんなこと言わないでくださいよ〜〜! 写真同好会はみんな、美雨先輩のファンなんですからね!」
秋帆は靴を脱いで部屋に上がった。床の青色のカーペットは色褪せ、鮮やかさが失われている。中も特にリフォームはされておらず、外観同様かなり年季が入っている。
玄関を上がってすぐは四畳のキッチンになっており、右手奥にシンクが備え付けられ、その手前に風呂場の扉があった。
「本当に狭くてごめんね。奥なら座れるから」
奥の硝子戸を開けると、吊り干しされた黒い下着——ではなく、写真のフィルムが部屋の中に何本も何本も垂れ下がっていた。
六畳の部屋にはベッドや本棚が置かれ、きちんと整理整頓がされていた。奥にクローゼットの扉があり、言っていた現像室だろう。
壁には彼女が撮影したであろう白黒写真が所狭しとコルクボードに留められている。風景であったり、高く跳躍したバレーボール選手の写真であったり。生き生きとした表情や躍動感は損なわれることなく、鮮やかな色彩が見える気がした。
「これ、先輩が撮ったものですか? 本当に素敵な写真ですね」
お世辞でもなんでもなく、素直に感心していた秋帆に、美雨は嬉しそうにはにかんだ。
「おいおい、アッキー…… 目的忘れるなよ?」
秀の苛立った声に、秋帆は忘れ掛けていた本来の目的を思い出した。
「あのっ、花澄ちゃんから大体の話は聞いたんですが、詳しいことは直接先輩から聞いて欲しいって言われて」
「……」
はっと現実に返ったように、美雨の表情に影が落ちた。
美雨と花澄はベッドに座り、秋帆と秀は座布団を勧められて床に座った。
「一ヶ月前まで、ストーカーに遭ってたの。それはサークルのみんなのお陰ですぐに収まったんだけど、そのすぐくらいからかな……度々悪夢を視るようになって…… 夢だから気にしないようにしてたんだけど……でも、二週間前……夢じゃなくて、部屋の中で視たの」
それまでじっと俯いていた瞳が上を向いて、秋帆を見詰めた。
「黒い右手を」
憔悴して、輝きの濁った瞳はまるで死霊のそれだ。
「こんなふうに手首から下だけ、そこのガラス戸の隙間からこっちを見てた」
美雨は右の手のひらを下にして太股へ置いた。
「……目はないのに見てたって言うのも変な話だけど、何だか見られてる気がしたの」
余程恐ろしかったと見えて、白い指先が微かに震えている。
「慌ててガラス戸を締めて、しばらくして見たらもういなくなってた…… その時はストーカーのせいで精神が参って、変な幻覚を視たんだと思ってたんだけど……その一週間後、永瀬くんがここに来たとき、視ちゃったらしいの」
怯えきった声で途切れ途切れになる美雨の話に、花澄が補足する。
「永瀬先輩っていうのは、写真部の部長。永瀬先輩からも話を聞ければ良かったんだけど、今日は急だったから、どうしても来れなくて……」
美雨は花澄の低い肩に凭れ掛かり、花澄は美雨の手を優しく握っていた。まるでその姿は姉妹のようだ。
「悪夢で視ていたモノが、この部屋でも現れるようになった、ということですか?」
秋帆が問うと、美雨が沈痛な面持ちで頷いた。彼は少し考えたあと、口を開いた。
「先輩が視たのは幽霊じゃないと思います」
「えっ?」
その言葉に美雨だけでなく、花澄や秀も目を丸くした。
秋帆はもう一度改めて、美雨の背後を視る。
「この部屋に幽霊はいません」
秋帆はきっぱりと言い切った。




