19 ひなどりたちと先生 ≪二日目 昼≫
「……秋帆先生、採点お願いします」
「いいよ」
自主的に小テストを解いていた大雅から話し掛けられ、答案用紙を受け取った。彼は本当に学習意欲が高い。贔屓をしてはいけないと分かっているが、頑張っている子ほど応援したくなってしまう。
一橋の座っていた席に置かれていたファイルから、解答用紙を探し出した。
「……見学の人、昨日一緒にいた人ですよね」
「うん、そうだよ」
隣の秋帆にぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で、大雅が話し掛けてきた。
静かな中学生組とは違い、がやがやと騒がしい小学生組の机を振り返った。どうやら、朱緒は小学生に漢字を教えているようだ。
「これからも来るんですか?」
「……どうかな。今日は事情があって、来てもらってるから」
それが嫌なことなのか、良いことなのか――大雅の顔を見ても、彼の表情からは何の感情も読み取ることができなかった。
「……ちょっと怖い?」
第一印象があれなのだ。怖がられていても無理はない。
「そうじゃないんですけど……半年前に死んだ猫の名前が『ミケ』だったんです」
「……そうだったんだね」
彼に呼ばれたと思ったのだろう、それまで眠っていた猫の死霊――ミケが片耳をぴくりと動かした。
「二十二歳まで生きてくれて…… 最期もちゃんと看取ったので、悲しいとか、そういうんじゃないんですけど…… 名前を聞いてると変な感じがして」
『悲しいとか、そういんじゃない』と彼は言ったが、たった半年で小さな家族の死を乗り越えられるはずはない。
しかも、半年前といえば、大雅が不登校になった時期と重なる。
いまは心に様々な傷を負い、麻痺して痛みを痛みと感じていないだけだ。
「事情は伏せて、みんなに呼び方を変えてもらう?」
「そこまでしなくても大丈夫です……」
もし、このことで彼が『ひなどりの森』にも通えなくなってしまったら、それはとても哀しいことだ。
こんな時ばかりは、自分が幽霊の視えると打ち明けていないことを秋帆は後悔した。
ミケはいまでも大雅の傍にいる。そのことを知れば、幾らか彼の心も慰められたに違いない。
◇
自主学習の時間が終わり、朱緒がトイレに立った隙を狙って秋帆は追い掛けた。
「観池くん、どんな様子?」
「……子供の相手は無理って思い知ったから、ある意味良い体験になった」
朱緒は辟易したように息を吐いた。
「でも、みんな良い子でしょ」
なにも言わなかったが、渋面をした朱緒の首が十度ほど傾いた。
「道場だと騒いでたら叱れるけど、ここじゃそれも難しいだろ。どうやってコントロールするのか、全然わかんねえんだけど」
規律や精神性を重んじる道場と、心のケアを優先するフリースクールでは、天と地ほどの差があるだろう。子供たちが騒いでも思うようにできないストレスで疲弊しているようだ。
「……あの、それですごく聞きにくいことなんだけど」
「なに?」
「観池くんって恋人いる?」
「……は?」
それまでとはまったく脈絡ない質問に、朱緒の口がぽかんと開いた。
「生徒たちに聞いて欲しいって頼まれて」
「断れよ……」
「二対一で負けちゃった」
「……そういうことなら、答えたくない」
朱緒は短く鼻で息を吐くと、呆れた目で秋帆を見下ろしている。
「ごめん…… 答えたくないこともあるよね……」
「別に隠すようなことでもねえけど」
ならば、教えてくれないかと思ったが、これ以上食い下がっても教えてはくれないだろう。
「つか、なんで橘が謝んの?」
「そうなんだけど……」
「そういうオマエの態度も気に食わないし、頼んできた奴らも気に食わないな」
それだけ言うと、彼は秋帆を置いてお手洗いの方に向かった。
怒られるよりも、失望される態度というのはときにより傷つくもので、残された彼は肩を落として教室へと戻っていった。
すると、女子中学生二人に女子小学生組の二人が加わり、計四人が教室の入り口で待ち構えていた。
人数が増えている。
「アッキー先生、どうだった?」
「やっぱいる感じ?」
「……ごめんね。教えてもらえなかった」
彼からそう言われた彼女らの表情がみるみる曇っていった。こう立て続けに失望されると、心を抉られる。
「アッキー先生。もしかして、私たちに聞かれたからって言っちゃった?」
「えー…… それは駄目だよ。さりげなく聞かなきゃ」
五つも年下の女子に諭されて、秋帆は泣きたい気持ちになってしまった。
彼女たちの言うとおりだ。朱緒の態度を見るに、会話の流れとして自然に聞いていれば、普通に答えていただろう。
「うわっ、女子がアッキー先生いじめてる!」
四対一で小さくなっている秋帆を見た小学生組の男子が大声を上げた。
集まる全員の視線に彼の胃がきゅっと痛くなる。男子と女子の諍いだけは本当にやめてほしい。
「いじめてないもん! 話聞いてただけだし」
「ね、秋帆先生」
「うん、いじめられてる訳じゃないから、大丈夫だよ」
しかし、少年は疑わし気な目で見てくる。
「マジで大丈夫? 女子に言わされてない?」
「アッキー先生が言えないなら、俺たちで榎本先生に言っとくよ?」
小学生に心配されてしまうあたり、我ながら益々情けなくなった。
その時、ちょうどお手洗いから戻ってきた朱緒と目が合った。
「あ、ミケ先生。さっきアッキー先生が女子にいじめられててさ」
「女子って怖いよなー」
「へえ……」
止めを刺しに来ているのか、朱緒が憐れみを込めた目で秋帆を見つめていた。同情するなら恋人の有無を教えてくれと、恨みがましく思わずにはいられない。
「……もう次の時間始まるから、みんな座って榎本先生と一橋先生を待ってようか」
空気を変えるべく、秋帆は手を叩いた。心では泣いていたが、顔は精一杯微笑みながらスタッフらしく振舞った。
そんな彼の言葉にも素直に従ってくれるので、子供らは本当にいい子だと思う。
「……女子って、本当に怖いですよね……」
中学生組の机に戻ると、大雅まで気の毒そうに秋帆に声を掛けてきた。
最後の最後に刺された言葉に、秋帆は思わず机に突っ伏した。




