17 朝風吹く ≪二日目 朝≫
居間から顔を出し、廊下の先を覗いて何もいないことを確かめた。心積もりなくナニかに遭ってしまったら、失神してしまう自信がある。
足を運ぶごとに床板がぎしぎしと鳴り、無人の家に響き渡った。
夜は分からなかったが、立ち入るなと言われていた奥の廊下は右手がガラス戸になっており、うっすらと朝の光が差し込んでいる。だがそれでも薄暗く、何も居ないと分かっていても、不気味なものは不気味だった。
なるべくそちらは見ずに、障子を開けた。
朱緒の部屋に戻った秋帆は、試験勉強用のファイル一式を持った。玄関から靴を持って洗面所の勝手口から外に出ると、彼はようやく恐怖から解放された。
外の空気が清々しい。大きく伸びをして、深呼吸をした。
木戸を抜けると、眼前は建物の裏側だった。ここが社務所なのだろう、木造の小さな小屋のような建物で、やはり古い。
社務所の表に回ると、お店屋さんのようなところに朱緒がちょこんと座っていた。
祈祷の御案内、御朱印受付の看板や、御札や御守りの見本が置かれている。
「観池くん」
「……ビビった。何かあった?」
参拝客かと思ったのだろう、咄嗟にスマートフォンを下に隠したが、秋帆だと分かると下げていた手を出した。
「そうじゃないけど、独りでいると落ち着かなくて」
この歳にもなって、独りでいるのが怖いとは言えなかった。
「……ああ。じゃあ、こっち座っとく?」
「え? 入っていいの?」
「別にいいんじゃねえの。裏から入れるから」
次代の「神主」が言うのだからいいのだろう――本当にいいのだろうか?
秋帆は裏に回り引き戸を開いた。立て付けが悪く、半分ほどしか開かない。
「こっちだ」
奥から朱緒の声が聞こえてくる。秋帆は靴を脱ぐと声の方に歩いていった。大きな建物ではないので迷うことはなく、彼のいる部屋はすぐに分かった。
三畳ほどの小さな部屋で、朱緒はパイプ椅子に腰を掛けていた。
隣の席を勧められ、秋帆も座った。朱緒のように着物ではないが、本当に良いのだろうか。
前面に開いた窓からは、鳥居や参道、奥に広がる池や鎮守の森がよく見えた。本殿は右手に奧に在るため、ここからは臨めない。
蝉が鳴き始めていたが、池の方から吹く風で涼しさを感じるほどだ。
「こんな早朝にも人が来るんだね」
「御神池――池の周りが散歩コースになってるからな」
木の葉の擦れる音に、ぽつぽつと見える参拝客が玉砂利を踏む音。早朝の境内は穏やかな空気が流れている。
久しく喧騒の中に身を置いていた秋帆は、心身ともに癒されるようだった。
「あのさ、昨日布団に入ってから考えてたんだけど」
「……俺も」
秋帆と朱緒の目が合う。
「「イカタコ合戦」」
ふたりの声がきれいに揃った。
「そうだよね、絶対遊んでたよね!」
「あれ二年前だっけ?」
「そうそう。高二の夏! 夏休みずっと遊んでた」
「俺も。ツレとディスコつなげてずっとやってた」
「え~、もう二年前かあ。もしかしたらマッチしてたかもね」
「絶対してただろ。あのとき、マジで一日中やってたし」
「一年ずれてたら、受験ヤバかったよね」
「それな」
懐かしい話で盛り上がっていたところ、窓口に現れた女性の参拝客に怪訝な目で見られてしまった。
朱緒はすぐさま澄まし顔をしていたが、秋帆は恥ずかしくなって思わず俯いた。
女性は御朱印の記帳をお願いに来たようで、朱緒は御朱印帳と初穂料を受け取った。
机の右手側に用意していた印章を押し、その上から筆で「奉拝 巳池神社」の文字、今日の日付を書き入れる。
秋帆はその鮮やかな筆運びを真横で、惚れ惚れとしながら見つめていた。
参拝客が遠くに行ったのを見届けて、小声で話しかけた。
「格好いいな。一発で書けるんだ」
「慣れ」
「それだけ練習してるってことだよね、すごいよ」
通りでノートの字もきれいなはずだ。
「誰でも千枚書けば書けるようになるんじゃねえの」
「コーセーくんも?」
「……」
尖りに尖った晃生の癖字だ。
朱緒はすこし悩んだ様子を見せたあと、
「アイツは……まあ、一万枚くらい書けば」
「コーセーくんにも見込みがあってよかった」
秋帆が笑うと、朱緒は小さく口の端だけで笑った。
「判子、見てみていい?」
「押してみるか?」
メモにしているチラシの裏紙を渡されたので、断りを入れてから印章を押した。
素朴な絵柄で織姫様のような着物を着た女の子と蛇、その背景には池と入道雲の図柄が描かれている。
「かわいいね」
ところが、朱緒は鼻で笑った。
「何?」
「……別に」
言葉少なに黙ってしまった彼に、秋帆は戸惑った。
「これもらっていい?」
「好きにしろ」
紙が折れないように、クリアファイルに挟み込んだ。
「今さらだけど、僕もお参りした方がいいかな?」
「やめとけ。地元の人間でもないのに、軽々しく参るところじゃない」
素っ気なく返されてしまった。
「ひとつ気になったんだけど、観池くんの苗字って、観察の『観』なのに神社の名前は巳年の『巳』なんだね」
朱緒は目だけでこちらを見て、何やら思案しているようだったが、やがて口を開いた。
「創建当時は名字も蛇の『巳』だったらしい。でも、あるとき祟りが続いて、大昔にいまの『観』に変えたんだってさ。ウン百年前の話だから、本当はどうだか知らないけど」
「何百年も続いてるなんて、歴史があるんだね」
「歴史があるったって、この通りの弱小だから。継いでも副業しないと、食ってけないし」
「……厳しいね」
朱緒のように進路の方向は決まっていても、悩みは尽きないものかと、秋帆の口から溜息がこぼれた。
「じゃあ、教員しながら副業で神主さん?」
「……教免は取れたら取るつもりだけど、『学校の先生』になるつもりはないな」
では、何のために教育学部に入ったのだろうか? その疑問がありありと秋帆の顔に浮かんでいたのだろう。
溜息をひとつ吐くと、朱緒は答えた。
「うちの大学、武道教育コースがあるだろ?」
たしか、スポーツ教育専攻のなかにあった気がする。
「ガキの頃通ってた剣術道場があって、いまも顔出したときに中学生とか見てるんだけど……そこで教える側になってみないかって先生に言われてて……まあ、そんな感じ」
「へえ、もう就職先が決まってるようなものだね」
「給料の方はほとんどボランティアみたいなものって聞いてるから、ただの義理立て」
そちらでも、生活は厳しいようだ。
「そういえば、観池くんは咒の討伐だとか、そんなことはしないの?」
それを聞いた朱緒の顔が、一瞬気色ばんだ。
「その話、どこで聞いた?」
「えっ……伊武さんと話してた時に、そんな感じの話が出て」
「……あのお喋りクズ野郎が」
聞こえよがしに舌打ちした。
やはり、秋帆のような一般人が深く聞いてはいけない話だったようだ。
「……僕は何も聞いてないです」
「さすがに命取るほどの話じゃねえよ……」
怯えた彼の命乞いを正しく命乞いと受け取るあたり、その境界線はどこかに存在するのだろう。
朱緒は命乞いまでする秋帆に呆れているが、その裏側を思うと背筋が寒くなった。
「……でもまあ、そうなるな。それしかできないし」
開き直るように自嘲する横顔が、哀しく見えた。
「……観池くんて、時々自分を卑下するけど、僕は観池くんに助けられたんだよ。祓えることに、自信を持ってほしい」
「……」
――ほんの、ほんの一瞬だった。
こちらを向いた朱緒の目から光が消えた。
地雷を踏んだのだと気付いたが、いまさら言った言葉を取り下げることはできない。
「自信云々の話じゃねえよ。なるべく客観的に自己分析してるだけだ。だから、クレーンゲームのときもそうだったろ?」
「……それを出すのは、狡くない?」
秋帆は眉尻を下げながら苦笑した。
さすがの秋帆もこれを口で伝えるには恥ずかしいが、霊的な存在を祓うことができる彼――朱緒を尊敬している。
そして友人として、彼の影のある表情を見てしまっては、何とかできないかと思うのは当然ではないのだろうか。
秋帆との会話は終わりだと思ったのか、朱緒はスマートフォンでゲームのアップデート情報を確認していた。
「あ、バラックの強化来たんだ。ロマン武器って言われてるやつだよね」
「……ハァ? 誰が、ンなこと言ってんだよ。近接最強だろ」
どうやらお気に入りの武器だったらしい。
顔を上げた彼に落ち込んだ様子はなく、武器を貶されて不満そうに唇を尖らせている。
「僕がいつも見てる配信者さん」
「名前出せ」
「配信に凸りそうな勢いだからやめとく……」
「凸らねえよ。ブロックするだけ」
好きな配信者の視聴者数を、まだ可能性の段階とはいえ、永久的に一人減らすことはできないので秋帆はそのまま口をつぐんだ。
「……言わない気かよ」
朱緒が悔しそうに舌打ちをひとつした。
◇
ふたりが家を出るまでに今週末の祭の関係者が数人来て、朱緒が丁寧に対応していた。
彼の対応は愛想がいいとは言い難かったが、幼い頃から見知った顔ばかりなのだろう、関係者の方は特に気にする風もなく気安く朱緒と話していた。
秋帆を見た人々の反応は一様に同じで、まずは珍しがられ、朱緒の友人かと訊かれ、名前と出自を訊ねられた。
八時二十分を過ぎても伊武は戻らず、朱緒と秋帆は仕方なく社務所を離れ、用意を十分で済ませると家を出た。
炎天下の道を三十分歩き(いつもは自転車で十分足らずだというが)、電車移動を一時間半、しかも乗り継ぎが三回。毎日毎日、移動だけでも力尽きてしまいそうだ。
実際、朝が早かったせいか、それとも体力温存のためか、電車のなかの朱緒はずっと眠っていた。メッセンジャーバッグを前に抱え、腿の間に模擬刀の入った竹刀袋を挟んで、安定した体勢で座って寝ている。
彼は義理立てと言っていたが、わざわざこんなに遠い大学を選ぶ必要があったのだろうかと、秋帆は気になってしまった。
そんなふたりが二時限目の講義室に入ったのは十時三十分過ぎだった。
秋帆がぎりぎりの時間に教室に入るのはいつものことなので、晃生が席を確保してくれていたが、朱緒は空いた席を探して後ろの方でしばらくうろうろとしていた。
やがて、学部内の陽キャグループの隣に空いた席に座り、何やらいろいろと話しかけられていた。




