16 清浄の住処 ≪二日目 朝≫
昨晩は先輩の介抱でゆっくり眠れなかったこともあり、布団に入るなり秋帆はぐっすり寝入ってしまった。途中目覚めることもなく、起床したのは六時四十分。
あらかじめ話を聞いていた通り、朱緒の姿はベッドにない。
身支度をして居間に顔を出すと、台所では朱緒と伊武が慌ただしく朝食の支度をしていた。
今朝のふたりは和装姿だ。朱緒は白上衣に無地の白袴、伊武は白上衣に浅葱色の袴を穿いている。特に伊武は重たげな髪をハーフアップにして、額を出していた。
「おはようございます」
声を掛けるとなぜか三人分の挨拶が返ってきて、台所の奥から七十がらみの小柄な女性が出てきた。
「あら、ホント。珍しいわ。朱緒ちゃんにお客様がいらっしゃったのね」
ふっくらとした顔に柔和な表情の、親しみやすい雰囲気をした老齢女性だ。白髪は染めず、短い髪には軽くカールを掛けている。
「彼女は田口さん。氏子さんで、朝と昼だけ食事の準備に来てくれててね。昨日のカレーも田口さんの料理だよ」
横から伊武が紹介した。
「昨日はご馳走さまでした。生まれてきて食べた中で一番おいしいカレーでした!」
お世辞でも何でもなく、嘘偽らざる本心だった。空腹のせいも(大いに)あったとはいえ、食べていて泣きそうになったカレーライスは初めてだ。
「あらやだ! 嬉しいこと言ってくれるのねえ!」
田口と伊武が、顔を見合わせてにこにことしている。
「田口さんが、せっかく来てくれるのに精進料理は可哀想だって言って、俺らも食えるヴィーガン用のカレールーをスーパー梯子して探してくれてさ。張り切って作ってくれたんだよ」
「伊武さん、お店を回って良かったわねえ~」
「そこまでしてもらってたんですか……! 本当にありがとうございます!」
笑うと、彼女の目尻の皺が深くなる。
「この家、まともな料理作れる奴がいないから、ホントに田口さん様々だよ」
「伊武さんまで、嬉しいわ~~! でも、料理なら紅緒ちゃんがいるじゃありませんか」
「……田口さん、その話はちょっと」
朱緒が彼女を静止した。
「……あらやだ」
彼女は目をまん丸にして口元を押えた。
『紅緒』――昨夜は伊武からその名前を聞いた。不在と言っていた朱緒の兄弟だろうか。
「……では、あたしはこれで失礼しますね。またお昼に来ます」
軽く会釈して、台所の勝手口から出ていく彼女を三人で見送った。
「あっ、配膳手伝うよ」
「もう済むから、飯とすまし汁は自分でな」
そう言われ、朱緒に茶碗と汁椀を渡された。
秋帆用の卵焼き、冷奴やほうれん草の煮浸し、がんもどきの煮物は皿に適当な量に盛られて、伊武が食卓に並べている。
主菜に動物性蛋白質がない分、副菜が多い。
「あ、橘くんは納豆要る?」
「いえ、食べられなくて……」
「ふたりとも最近の子だな~」
その口振りからして朱緒も食べられないのだろうかと、彼の顔を見た。
「別に食べなくても困らないだろ」
「身体に良いのに」
「無理なものは無理」
軽口を叩き合いながら三人は席につき、いただきますの言葉とともに食べ始めた。
「八屋さん来たら俺出るから、番は宜しくな」
「今日は八時半には家出るから、二十分までしかいれないぞ」
「え? 早……あ、チャリ置いてきたって言ってたっけ。なるべく早く戻るようにするわ」
この後、用事でもあるのか、伊武の箸が早い。
そうこうしているうちに男の声と、玄関の引戸が開く音がした。それを聞いた彼は、慌てて茶碗の白ご飯を掻き込んだ。
「洗い物、帰ってきてからするから」
「洗っとく」
「ありがと」
居間から出掛けたところでたたらを踏んで、彼が慌てて踵を返した。
「橘くん、これ。出来たから返しとくね」
そう言うと、懐から白いハンカチを取り出して、机の上に広げた。中から出てきたのは、昨晩秋帆が預けた二つの御守りだった。
「こっちが魔改造したやつ。で、予備の方は参考にするのに中開いたから、使い物にならないんだけど戻しとくね」
魔改造したという御守りは、すこし厚みが増していた。
「持って十日ってとこかな」
「伊武さん、ありがとうございます。本当に、どうお礼を言っていいのか分からないんですけど……」
「そんなに喜んでもらえたら、頑張った甲斐があるってもんだね。……あ、マジでヤバいから、じゃあね」
お礼もそこそこに、伊武は走って部屋を後にした。
玄関から男との会話が聞こえていたが、すぐに戸の閉まる音がした。
「……忙しそうだね」
「昨日言ってただろ、今週末の準備だよ。あと一日は親父も多賀橋さんもいないし。うちなんか弱小社だから、普段は暇なくらいなんだけど」
暇じゃ困るんだけどな、と小さく小さく溢したその表情に、哀愁を感じたのは秋帆の目の錯覚ではないはずだ。
そんな彼も忙しいのか、心なしか今朝は食べるのが早い。
秋帆が半分食べた頃にはもう食べ終わり、さっさと二人分の洗い物を済ませていた。
「俺は社務所で番してるから」
そのための和装姿かと、秋帆は納得した。
「洗面所に勝手口あっただろ? そこ出たら、左に戸があって。入ってすぐにある建物な。何か用があったら呼んでくれ」
言うが早いか出るが早いか、朱緒も行ってしまった。
一人残された秋帆はゆっくりと朝食をいただいた後、食器を洗った。
時計を見ると、まだ七時半だ。八時半には家を出ることになっている。
あと一時間でも試験勉強をした方がいいのだが、どうしようか。
ふとそこで、彼はいまこの家に自分ひとりしかいないということを、強く意識してしまった。すると無性に、独りでいることが怖くなってきた。死霊の気配や淀んだ空気だとか、そういったものはない。相も変わらず静かで、清浄な空気に充ちている。
だがその空気が、いまや牙を剥いていた。
自分以外の人の気配がなくなったのを境に、この家に歓迎されていないという圧迫感が徐々に秋帆を襲っていた。
いてもたってもいられず、朱緒のいる社務所に行ってみることにした。




