13 厨房説諭 ≪一日目 夜≫
締めに氷菓まで食べて、夕食を終える頃には二十二時半を回っていた。
先に秋帆を風呂に行かせた朱緒は、リビングに入った。
「橘くんはお風呂?」
シンクで食器を洗っていた伊武が、顔をこちらに向けた。彼の手が大きいせいで、スポンジが小さく見える。
朱緒はその横に並ぶと、食器の泡を流して水切り籠に並べていった。
「伊武さん、赤猫遭遇位置の情報共有しといたんで」
「ありがと。俺の方から報告上げとくね」
「頼みます。明日、特定したらまた追加で上げときます」
「え、行くんだ。律儀だねえ」
伊武が一瞬、手を止めて朱緒の横顔を見た。
「奉納刀、どれか持ってく?」
「そこまでは。真剣持って街中うろうろできねえし」
「でも、報告上げても組合も人手不足だから、どうせ後回しにされちゃうよ?」
「……だろうな」
朱緒は溜息の代わりに舌打ちをした。
数時間前に視た赤猫の姿を思い出す。
背と尾から、真っ暗な炎を立ち昇らせていた。火傷で剥れた皮を引きずりながら、赤い肉を晒して道路を悠然と闊歩する禍々しいあの姿。従える死霊の数は、朱緒が視えただけで六つ。
いまは事件として表面化していないが、何年も放置すれば、いずれは報道にも出るような被害を及ぼすだろう。
しかもだ、秋帆の護符が届くというのは一週間後。それまでに組合が動いてくれるという保証はまったくない。
「どうせなら、斬っちゃえばいいのに。試し斬りには丁度いいじゃん」
「……俺とは相性最悪だろ。飛び火するかも知れない」
そこまで解らない朱緒でもない。
「だから、持ってくか聞いてんだろ。何振りかあるでしょ、赤猫と相性いいヤツ」
「もし捜索中に警察捕まったら、伊武さん来んの?」
「あー、行く行く。面白そうだし。銃刀法違反だっけ?」
この男なら、本当に笑いながら警察署まで来かねない。
「……やっぱ、嫌だな」
「は?」
伊武の声が、一段下がった。煮え切らない朱緒の態度が癪に障ったようだ。
「君、斬ることしかできないんだから、それもしないなら存在価値ないよ」
その通りの事実に、朱緒の喉がぐっと詰まった。
「いまなら報告も上げてないから、好き勝手やってもバレないし。もしバレても、ちょっと叱られる程度で問題にもされないよ。みんなそうやって腕を磨いてる訳だしね。好き勝手やり過ぎて、鼻摘み者になってる俺に言われたかないだろうけどさ。いつも言ってるけど、もうちょい積極性を持った方がいいよ」
始まった、いつもの説教だ。
伊武が気怠げに重い溜め息を吐く。
「……前から言おうと思ってたけど、朱緒くんは良い子ちゃん過ぎるんだよね。いまならまだ、周囲に大人がいるんだから、流されてないで自分から考えて動きなよ。それで失敗しても、誰かがケツ拭く手伝いしてくれんのに。環境に甘えられるのは、いまのうちだけだよ。何の失敗もないまま頼れる人がいなくなって、それからとんでもない失敗しても、自分でケツ拭く自信あんの?」
「……」
「あ、黙っちゃった」
伊武の捲し立てる正論に、朱緒は一言も反論できなかった。
彼も言いたいことを言ってすっきりしたのか、先程までの機嫌の悪さは消えている。
「あと、お節介だけどこれだけは言わせてもらうよ。中途半端に首を突っ込んで、いい結果になるとは思えない」
「……分かってる」
「赤猫のこともだけど。橘くんのこともね」
伊武は目を細めて、心底から面白がるように朱緒を見下ろした。
「君だって分かってるんだろ?」
――何を、と言われずとも朱緒にも分かっている。
「あんな護符を持たされてるような人間、まともじゃないよ。それこそ、君の手に余るんじゃない?」
「それはアイツ自身の問題だろ」
「どうだかな、朱緒くんは甘ちゃんだからね」
「……」
「案外、あの子のこと気に入ってるだろう」
伊武は両の口の端を吊り上げて、にたりと嗤った。細めた目尻から、或いは歯列の見える口元から、悪意が煙のように燻り出ている。
「芯からどうでもいい奴なら、目の前で取り殺されようが、絶対に助けたりしないもんな」
朱緒は静かに眉根を寄せるだけで、それ以上は何も言わなかった。
これは煽りだ。
もしここで秋帆を友人ではないと否定すれば、何をしでかすか知れたものではない。
うまく取り繕ってはいるが、この男はおおよそ外道と呼ばれる種類の人間だ。
そうして次の瞬間には、先程見せた表情が嘘のように、伊武は普通の顔をしていた。
「でも、甘さを許されるのが子供の特権だし。こうやって今日みたいに、大人を頼ってくれよ」
いちいち、気に障るな言葉を選んでくる。
だが、子供と言われた朱緒は否定できなかった。民法上は成人しているが、そういう次元の話ではない。
彼自身、自分の未熟さは重々承知している。問題を起こしたとしても、責任を取れるような立場にないことも。
「……護符の件は、有難うございました。俺じゃどうにもできないことだったんで」
「いいよいいよ。朱緒くんのお友達だから、ね」
「親父の息子である、が抜けてるな」
伊武は端から朱緒のことなど見ていない、朱緒の父である真赭の熱烈な信奉者であって、それ以上でも以下でもない。
秋帆に親切にしているのも、『真赭の息子である朱緒の友人』という肩書の庇護があるからだ。
「差額は俺の方から出すんで、数日待ってください」
「本当に、お代なんて要らないのに。貯金しときなよ、お金は大事だよ」
「アンタに借りを作るなんて、怖すぎてできねえよ」
猛獣が服を着て、さも「理性があるので無害です」と言わんばかりの男である。弱みは作りたくない。
彼が観池の家に転がり込んできて四年になるが、慣れあうつもりは毛頭なかった。
「律儀だねえ。最近の若い子ってみんなそうなの? 俺の時代なんて、金借りて飛ぶか、逆ギレする奴ばっかだったんだけどなあ」
「それは伊武さんの周りがクズばっかだったって話だろ」
伊武はさして気にする風もなく、そうだった、そうだったと言いながら濡れた手を叩いて暢気に笑っていた。




