11 空腹とスパイス ≪一日目 夜≫
玄関扉を入ってすぐ、広々とした土間に四畳の広さがある上がり框だった。これがお金持ちの家でなければ、何と言うのか。
自分の部屋や晃生の部屋では何も気にせず靴など脱ぎっぱなしの秋帆だったが、きちんと靴を揃えずにはいられない空間に圧倒された。
廊下は板張りで、柱木も同じく深い飴色をしている。白熱灯の灯りを映して、微かにねばついたような光を反射していた。
「廊下のそこ、腐ってて乗ったら沈むから避けてこっち歩けよ。踏み抜いたら修理費請求するからな」
朱緒は廊下の左側に寄って、右側を指差す。左側の床板も踏む度に小さく鳴いて、秋帆はおっかなびっくり慎重に歩いた。朱緒とて、謙遜で『古い』だの、『ボロい』だの言っている訳ではないようだ。
正面に伸びる廊下の右手側には、洗面所があった。水回りはリフォームしているということだが、確かに板張りの床ではなく、フロアタイルが敷かれている。奥に見える風呂場もフラッシュドアだ。
「そっちトイレでここが洗面所、その奥が風呂」
廊下の隅に荷物を適当におろした朱緒は、洗面台で手を洗って口をゆすいだ。秋帆も倣って手を洗う。
朱緒は洗面所の対面にある障子を開けて、家人に呼び掛けた。
「伊武さん、いる?」
障子の先は、十二畳の広々としたキッチン・リビングだ。こちらもリフォームされていて真新しい。冷房の空気とともにカレーの匂いが廊下まで流れてくる。
部屋に入ると手前に座卓とソファ、テレビがあり、その奥は食器棚やシンク、食卓が置かれた台所になっていた。
その奥の炊事場から、三十がらみの男が顔を覗かせた。彼はコンロの火を止めると、こちらへにこりと微笑んだ。
「朱緒くん、お帰り」
男が軽く手を上げた。
見るからに身長が高い。大きな手のひらに長い手足、均整のとれた身体付きをしている。目に掛かる重たげな黒髪は少し癖が掛かって、彫りの深い彼のエキゾチックな相貌に良く似合っていた。
朱緒とは系統の違う美男だ。大人の色気がある。
この男が朱緒の言う「ロクでもないクズ」なのだろうか、とてもそうは見えない。強いていうならば、女性関係にだらしないところがあると言われれば納得できる。
「何、そのぬいぐるみ」
「何でもいいだろ。……橘、こちら伊武さん。自称、親父のお弟子さん」
「自称はやめてくれよ、ホントに自称なんだからさ」
言いながら、伊武と呼ばれた男の視線が秋帆を向いた。
「君が橘くん?」
朱緒から男には話が通っているようだった。
「ふーん」
近付いてきた男は、値踏みするようにじろじろと秋帆を眺め回した。こうも露骨に見られると、居心地が悪い。
「……初めまして、橘秋帆です。今日からお世話になります」
「大したお構いもできませんが、ごゆっくりどうぞ。マジでそんな気を使わなくて良いよ、俺も居候の身だし。今晩は三人だけだから、騒いでも怒られないからね」
顔に似合わず、男の声音は柔和で気さくだった。態度や喋るテンポに余裕があり、まだ秋帆らにはない包容力がある。
「事後報告で悪いけど、伊武さんには護符が焼かれたことと、オマエの霊媒体質のことは話してあるから」
「……えっ」
寝耳に水だった。
その話はまったく聞いていない。どういうことかと思い、秋帆は思わず朱緒を見た。
「……あーらら。朱緒くん、言ってなかったの? 俺も見くびられたもんだ」
「アンタの腕を疑ってる訳じゃないが、俺じゃ判断できないことだったんで」
「まあ、そういうことにしといたげるけど」
何のことを話しているのか解らないが、二人の間では会話が成立しているらしい。
「……すみません、話が見えないんですが、どういうことですか?」
恐らく自分に関係する話だ。にも関わらず、当人である秋帆には彼らが交わしている会話の意図がまったく分からなかった。
「まあまあ、その話も追々ね」
「はい……」
秋帆の急な訪問で、朱緒に迷惑を掛けている自覚はある。彼にも事情があるのだろうが、一言くらいは何か言って欲しかった――もやもやとした蟠りが秋帆の胸の奥に燻ぶった。
「それより、腹減って死にそうでしょ? カレー温め直してるから、荷物置いてくれば?」
彼の言葉に甘え、ふたりは居間を出て、朱緒の部屋へ向かった。
歩く度に軋む薄暗い廊下には、配線が剥き出しの白熱灯がぶら下がっていた。いまにも天井から、蜈蚣か蜘蛛が落ちて来そうな気配である。
廊下を充たす湿度がそう思わせるのか、白熱灯の薄暗い光がそう思わせるのか、或いは両方か。
廊下を曲がると、左右に障子が並んでいた。廊下の奧は真っ暗で、思わず一歩後ろに下がってしまった。
「この先は親父の仕事場だから、絶対に入るなよ」
朱緒がそちらの暗がりを指差し、秋帆は激しく頷いた。
頼まれても絶対に入りたくない雰囲気が漂っている。
――とはいえ雰囲気だけで、この敷地内に入ってからは死霊の姿はおろか、影や気配すら視ていない。
それどころか、邪気が澱みそうな暗がりにさえ清浄な空気が充ちていた。
「部屋、片づけてないからな」
言いながら朱緒は左手の、一番手前の障子戸を開いた。開けるなり引き紐を引いて電気をつけると、エアコンのスイッチを入れていた。
彼の個室は六畳の畳敷きの和室で、三方を襖か障子で仕切られていた。
欄間や襖絵の意匠は古めかしくあったが、家具や電子機器は間違いなく現代の物だ。
まず目についたのは、年季の入った文机に置かれたゲーミングPCだった。机の右端に棚を置いており、ヘッドフォンやコントローラーなどのガジェット、フィギアが整理され置かれている。
その反対側には書棚があり、一番上には大学で使う教科書や資料集、その下に居合道や剣道の雑誌が少しと、分厚い図鑑が数冊、それから時代小説の本が並んでいる。
その書棚と文机の間には刀掛台が置かれており、模擬刀が立て掛けられている。
後は箪笥にポールハンガーや姿見鏡、布団が乱れたままのベッドが置かれ、六畳間はいっぱいになっている。
その僅かに空いている畳の上に、畳んだ布団が一組運ばれていた。秋帆はその近くに荷物を下ろした。
「観池くん、帽子」
「あ、悪い。忘れてた」
ゲームセンターからここまで、秋帆はずっとキャップを被ったままだった。
朱緒はキャップのつばを持って脱がすと、ポールハンガーの一番上に引っ掛けた。
その何気ない仕草がゲームセンターで秋帆の頭に被せた動きとまったく同じで、まさか秋帆をポールハンガー代わりに使っていたのではないかという疑惑が一瞬頭を過った。
荷物だけ置くと、ふたりは居間にとって返した。台所に戻ると、伊武がサラダを配膳しているところだった。
「手伝います」
秋帆が言うと、彼が笑ってそれを押しとどめた。
「お客様にそんなことさせられないよ。あと、カレーとご飯はお代わり自由だからね」
「待遇がいいな」
「君が大学入学して初めて連れてきた友達なんだから、そりゃVIP待遇でしょ」
ね、と伊武に振られたが、不機嫌そうな朱緒に睨まれ、秋帆はありがとうございます、とお礼をいうことしかできなかった。
「そうだそうだ。橘くん、このカレー肉入ってないからね。若い男の子には物足りないだろうけど。代わりに君の分にはゆで玉子つけてるから」
「どうして、僕の分だけなんですか?」
秋帆は首を傾げた。
「今週末、雨乞い神事があるから、俺ら潔斎中なんだよね。だから肉とか魚とか、それまで食べれなくてさ」
「……そうだったんですか」
今日のお昼、朱緒の白米がぎっしり詰まった弁当を思い出し、腑に落ちた。
知らなかったとはいえ、余計なことを言ってしまった――秋帆は反省した。
「今年、空梅雨だったでしょ。だから、急遽行うことになってさ。試験勉強もあるだろうけど、せっかくだから来る? 朱緒くんの奉納剣舞見えるよ」
両手で刀を持つ真似をして見せる。そのすぐ隣、朱緒が険しい目で睨んでいるのだが、敢えて無視しているらしく伊武は涼しい顔をしていた。
「本当なら、秋の例大祭だけなんだけど、今回は特別でね」
「……やめておきます。観池くん、すごく嫌そうな顔してるし」
「全然気にすることないって、照れてるだけだから。朱緒くんも、紅緒くんの素直なところ見習――……ッッッ」
ごつ、と鈍い音が下から聞こえた。見えなかったが、察するに朱緒が伊武の足を蹴ったらしかった。
普段は落ち着いた雰囲気の朱緒が、こんな子供っぽいことをするとは意外だった。
「さっさと食おうぜ。腹減った」
朱緒は椅子に座ると、小さくいただきますと言ってから食べ始めた。
秋帆も席に着くと、手を合わせてからカレーを一口頬張った。
――美味しい。美味し過ぎる。
あまりの美味しさに秋帆は泣きそうになってしまった。ゴロゴロ具材のニンジンの甘み、ホクホクのジャガイモ、丁寧に炒められた玉ねぎ、食感のアクセントのマッシュルーム。
そして、複雑な味わいのある本格的なスパイスのルー。
肉が入っていないのが気にならないほど、何もかもが最高だった。
「美味しそうに食べるねえ、橘くん」
「はい、すごく美味しいです!」
「素直でいいね。こんな子が友達になってくれて安心したよ」
「……でも、こうして迷惑を掛けてるので」
「朱緒くん、大学でぼっちでしょ?」
身も蓋もないことを聞かれ、秋帆は思わずカレーを噴き出しかけた。
「学校のことは全然口にしないし、この性格だから真赭さんも……あ、朱緒くんの親父さんな、心配しちゃってさ。今晩いたら、歓迎したと思うんだよね」
伊武は頬杖を付きながら嘆息した。
「事情は説明しただろ。コイツは遊びに来たんじゃない」
「分かってる分かってる」
「どうだかな……」




