8 赤猫邂逅 ≪一日目 夕方≫
駅の改札を抜けて空を見上げると、雲がきれいな茜色に染まっていた。
日没を迎えていたが、蒸し暑さに変わりない。朱緒のキャップを被ったままのこともあり、汗で前髪が張り付いている。
「チャリ買ったら?」
「考えとく……」
二十分歩き、アパートの入り口に着く頃には、秋帆も朱緒も汗だくになっていた。大学の購買で買った飲み物もゲームセンターで飲み干してしまっている。
朱緒はこの暑さでぬいぐるみを抱いているのだから、不快度数は秋帆より上に違いない。その証拠に、あおさばさんへの扱いが少しずつ雑になってきている。
「荷物はもうまとめてあるから取ってくるだけなんだけど、部屋上がってく?」
冷房の効いた部屋で冷たい飲み物くらいは出せる。
しかし、朱緒は首を振った。
「腹減ったから、早く帰りたい」
「じゃあ、冷蔵庫から飲み物持ってくる」
秋帆は階段を駆け登った。部屋は二階だ。
玄関の鍵を開けて電気を点け、靴を脱ぐ。外よりまだ暑い室内の空気にうんざりしながら短い廊下を抜けて冷蔵庫を開けた。
何かのボランティアでもらった封の開いていないスポーツドリンクと、飲み掛けのお茶のペットボトルを手に取った。
踵を返すと廊下に置いていた旅行用の鞄を持って靴を履き、電気を消した。
玄関扉を開けると、手のひらでぱたぱたと顔を扇いでいる朱緒が立っていた。
「アクポリでいい?」
「助かる」
よほど渇いていたと見えて、秋帆からペットボトルを受け取った朱緒はすぐに蓋を開けて飲んでいた。
部屋に鍵を掛けた秋帆も、ひとくちだけペットボトルに口をつけた。
熱された身体に、冷えたお茶が染み渡る。
「……これ、やるよ。それじゃ、塩分補給できないだろ」
「えっ、いいの? ありがとう……」
朱緒が鞄から出してきたのは、個包装の塩タブレットだった。
袋を破って口の中に放り込むと、塩分とレモンの濃い味に舌が喜んだ。
「美味しい……」
「そんな、噛み締めるほどかよ……」
朱緒が呆れて苦笑していた。
普段は冷淡な無表情をしている彼だが、話してみると意外によく笑う。少しずつでも、受け入れられているのだろうかと嬉しくなる秋帆は単純だ。
階段を降りきってしまってから朱緒がしまった、という顔をした。
「……あ、コイツ包む風呂敷か何か持ってきてもらうんだったな」
『コイツ』とは勿論、両手で抱っこしているあおさばさんのことだ。
「戻って探してこようか?」
「いや、いい」
朱緒が諦めたように、あおさばさんを両手から、左脇に持ち変えた。すこし──というか、かなり邪魔そうだ。
アパートの敷地から、道路へ一歩踏み込もうとしたときだった。
秋帆の身体が硬直し、視線だけを朱緒へ向けた。彼もまた視線をこちらに向けると、秋帆のキャップのつばを下にずらした。
──来る。
真っ黒な壁が押し寄せてくるような重々しい気配が、こちらにゆっくりと迫ってきている。
帽子のつばで狭くなった視界のなかで、ソレが前を通る瞬間、目を凝らしてしまった。
視えたのは、何かを引きずる足元だけだった。
だが、その周囲──死霊を侍らせて悠々と歩く姿は、間違いなく昨夜とおなじ獣の死霊だ。
通り過ぎて数分、秋帆は顔を上げることができなかった。
動揺を落ち着けながら唾を飲み込み、言葉をどうにか絞り出した。
「……観池くん、いまの」
「あぁ、俺も視た」
「昨日、アレとすれ違ったとき、御守りが焼けたんだ……」
朱緒は険しい顔で、獣の死霊が去って行った方を睨んでいた。
「……赤猫」
彼が呟くように漏らした言葉に、秋帆は首を傾げた。確かに言われてみれば、猫のような姿をしていたかも知れない。
「赤猫?」
「物や人を燃やす『咒』だ」
「咒……?」
「形や力を持った呪詛のことを、俺たちはそう呼んでる」
様々な疑問が秋帆の頭のなかを過ったが、一点はっきりした重要なことに、口に出さずにはいられなかった。
「燃やすって、まさか」
「ああ、護符の霊力に反応して、アレが燃やしたんだろうな」
朱緒は舌打ちした。
「最悪だ…… 昨日の今日だろ? この辺一帯を縄張りにしてるな」
そこで秋帆は、昨夜消防車のサイレンが鳴っていたことを思い出した。毎日毎日何かしらのサイレンを聞いており、今の今までまったく何も意識していなかった。
「まさか、昨日の消防車もその赤猫が原因なんじゃ……」
どこで何が燃えたのか、被害の規模も分からなかったが、彼はいてもたってもいられなくなってしまった。
「……追いかけよう。今日も火事が起こるかも知れない」
「待て」
走り出そうとした秋帆だったが、腕を掴まれ引き留められた。腕に朱緒の指が食い込んで、本気で掴まれている。
振り返ると、怖い顔をした朱緒が秋帆を睨んでいた。その表情に少し怯んだが、彼の身体はそれでも赤猫を追い掛けようと前に重心を置いていた。
「人が猫に追い付けるかよ。だいたい、何の準備もなく追い掛けて、オマエが焼かれたらどうする?」
「でも……!」
彼の言うことは至極正論だ。理性では理解したが、万が一にも人が傷付くようなことがあれば、ここで見過ごしてしまったことを後悔してもしきれない。
「焦るな。怪我人が出るような大火事になってたら、ニュースで聞いてるはずだろ」
「……」
今日が小火程度で済むとは限らないが、確かにそうだ──納得した瞬間、秋帆は身体から力を抜いた。
秋帆の興奮が落ち着いたことを確認した朱緒は、ようやく腕を離した。
「ごめん、取り乱した……」
「このまま放置できないのは確かだけどな」
うんざりした様子で、朱緒は頭を掻いている。
──そうだ、一週間後に秋帆の御守りが届く手筈になっているが、また焼かれては意味がない。
「咒なら、その依代になるモノが必ず在る」
「あ……」
秋帆は一か月半前の黒い革手袋を思い出した。
「それを探し出して、お祓いすれば」
「今日はもう遅い。探すとしても明日だ」
解決策を見出だし、表情を明るくした秋帆に対し、朱緒は釘を刺した。まるで親が子供にでも言い聞かすようだ。
「…………」
そこでようやく、彼は頭の芯から冷静になった。
御守りを焼かれて独りではまともに外を歩けない秋帆が、同級生である朱緒に無鉄砲な幼稚さを諭されてしまった。
心の底から、みじめで不甲斐なくなり、自分自身の存在が恥ずかしくなった。
「……本当にごめん。いまも観池くんに迷惑掛けてるのに」
足元が真っ暗になり、踏み出す地面が分からなくなってしまった。
頭も身体もぐらぐらと揺れて、身体の軸が失われてしまったかのように、目眩がする。
「余裕がないのは、腹が減ってるせいだろ」
言いながら、朱緒はスマートフォンを取り出して歩き出した。何に対してなのか、大きく舌打ちした。
滅茶苦茶な理由だが、秋帆のせいにしない優しさに、鼻の奥が熱くなってしまった。
きっとこれも、空腹のせいだ。
秋帆は慌てて彼の後を追い掛けた。しかし、彼は待つことなく早足で先を行く。
「そう言えば、観池くんは実家なの? 独り暮らし?」
小走りでようやく並んだ朱緒の隣で、どうでもいいようなことを聞いた。
「……実家」
「へぇ、実家なんだ。どこの区?」
「冬ヶ部」
都内にそんな地名の場所があっただろうか、秋帆は頭を捻った。
沈黙を不案内と取った朱緒が補足した。
「埼玉な」
「あっ、そうだったんだ」
言われて、区の北部が、埼玉県と隣接していたことを思い出した。
もっぱら移動は都内が中心で、その辺りの土地勘が秋帆にはまだない。
「じゃあ、隣だね」
楽観的な声を上げた秋帆に、朱緒が死んだように暗い失笑を微かに漏らした。
「ここから一時間半か……二時間くらい掛かる」
「……え?」
それを聞いた秋帆は空腹を抱えて、今度こそ本当に目眩を覚えた。




