1 憑依体質
キャンパスへ続く細い裏道に沿って、紫陽花が垣のように植えられていた。
四月には短く刈り込まれていたが、二ヶ月が経ったいまは緑の葉が人の背丈ほど繁り、大きな花が高々と咲いている。
しかし、からからとして水気がなく、色褪せて見えるのは今朝見たニュースのせいだろうか。
気象予報士は今日から関東近縁の梅雨入りを告げていたが、今年は空梅雨ということで農作物への影響を危惧していた。
それは、彼——橘秋帆も懸念するところだった。
長野から上京し、今年から東京の私立大学に通い始めた身としては、食費の値上がりは生活の圧迫に即繋がる。朝から気鬱なニュースを見てしまったと、眼鏡を指で押し上げながら小さく溜め息を吐いた。
気晴らしに青々と続く紫陽花の繁みを見るともなしに見ながら、ぼんやりと歩く。緑を見ていると心が安らぐ気がするので、ここは彼のお気に入りの道だった。
ふと、紫陽花の葉と葉の隙間から視線を感じ、思わずそちらを振り返ってしまった。
「——あっ」
この道では遭遇したことがなかったので、完全に油断していた。
葉陰から顔を半分だけ覗かせ、立っている少女。
歳は秋帆と同じくらいだろうか。目は細く、全体的にのっぺりとした顔をしている。肌は土気色をして、肩まで伸びた黒髪は濡れて頬に張り付いていた。
彼女が生者でないことは一目視て理解した。存在を無視をして通り過ぎればどうと言うことはないが、タイミング悪く目が合った。
(——しまった……)
鳩尾がきりきりと痛んだ。こんな失態は久々だ。慣れ始めた新生活に気が緩んでいたとしか言えない。
秋帆は御守りの入ったバックパックのショルダーストラップを握り締め、歩く速度を上げる。
ほんの十メートルの距離、すぐにキャンパス内の広場に出た。
私立見聡大学——生徒数約五〇〇〇名の中規模大学の構内には、一時限目に出席する生徒たちが各々の教室に急いでいる。
秋帆もその流れに飛び込み、決して背後を振り向くことはしなかった。
——憑いて来ている。
後ろを視ずとも、気配でわかった。背筋が粟立ち、悪寒がとまらない。
秋帆は幼少の頃から、死霊を視ることができた。それだけなら良いのだが、厄介なことにまあまあ酷い憑依体質だった。
外を歩けば人間霊やら動物霊やら、何かしら持ち帰り、夜になれば熱で魘された。大抵の場合、数日すればいつの間にか離れていたが、また別の霊に取り憑かれるということを、物心付いた頃から繰り返していた。
程度の差はあれ一家全員、霊感持ちなので家族の理解はあったが、それでも苦しいものは苦しい。
成長するにつれ学習し、中学に上がる頃にはその頻度はぐっと減り、十九となった今では諦めと共に立ち回りを覚えて、この境遇を受け入れていた。
しかし、完璧という訳にはいかず、今日のようにへまをやらかす時もあった。
(……あと、もう少し)
秋帆は教室へ早足で駆け込んだ。
身体が戸を潜り抜けた途端、首筋に縫い付けられていた糸が引き抜かれていくように、彼女の気配が秋帆から剥がれていくのを感じた。
良かった——安堵とともに、溜め息が溢れる。いまこの教室は、清浄な気に充ちていた。
秋帆の身を脅かす死霊の類いは、清浄なものを厭う。普通の人家であっても、こまめに掃除や手入れをし、清潔に保たれているところには——相当の原因がなければ——居着かないことが多い。
しかしここに漂う気は、清潔さだけでは説明がつかない。ただの教室には場違いなほどの清浄な気に充ちていた。
秋帆は教室の後ろに目をやる。後ろから二番目、扉に一番近い席にひとりで座る赤朽葉色の髪の青年がいた。文庫本を開き、話し掛けづらい雰囲気を放っている。
『観池』という名前だと、誰かから聞いた。
秋帆はその青年のことが、妙に気になって仕方がなかった。
だが、それは秋帆だけに限ったことではないはずだ。この時期、ひとりで行動する学生は少ない。すでにグループが幾つもできており、小中高のスクールカーストほどではないにしろ、緩やかな階級が存在した。
彼はそのなかから、遠く外れたところにいる。ぽつりぽつりと誰かしら好奇心で話し掛ける者もいるにはいるが、馴染むことなく消えない泡のように浮いている。
それだけで充分目立つ存在であるのは確かなのだが、これほど気に掛かる理由はそれだけではなかった。
「お、アッキー、はよ。どうしたんだよ、そんなトコ突っ立って」
窓際の席に男女四人が座っている。秋帆は我に返って、挨拶を返した。
「洗濯物干してたら時間ぎりぎりで、早足で来ちゃった」
「いつも言うことが主婦っぽいな。一人暮らししてるとそうなんの?」
冷やかすように話し掛けてきたのは、友人の一人である船山秀。秋帆はどう返事して良いか分からず、曖昧に笑った。秀は大柄で目付きが鋭く、やや強面なので睨まれると小心者の秋帆は何もないのにびくりとしてしまう。
「コーセーもそうなの?」
秀は隣に座る青年、甲斐晃生の肩を肘で軽く小突いて返事を求める。
「んー。全部ひとりでしないとだから、そうかもー。料理に洗い物、掃除も全部、自分もちゃんとやってるよ」
細い目と温和な口調の晃生は、見た目を裏切らないマイペースな性格だ。秋帆と同じく地方出身者で博多男児だと言うが、その言葉は彼の像に一欠片も重ならない。
「うっそ、マジで? コーセーにそのイメージなくなーい?」
「いやいや、自分は意外にマメな人間だよ」
「アンタが言うと胡散臭い。ねぇ、アッキーも信じらんなくない?」
晃生の前に座る女が、からからと笑う。滑舌のいい力強い口調、緩く巻いた茶髪をサイドでひとつに結んだ彼女——西尾璃々《りり》は、少し意地の悪い笑みのまま秋帆を見た。メイクはさほど濃くないが、付け睫と黒いアイラインが意思の強そうな彼女の瞳をいっそう強調させている。その目が少し怖いとさえ感じた。
「でも、男の子も家事するのは普通でしょ」
睨まれている訳ではない——分かっているのだが、小心な自分が情けない。秋帆は無理やり笑みを作って無難な言葉を返す。
「分かる〜〜! 女子にばっか家事押し付ける男ってサイアク〜〜」
それに食い付いたのはもう一人の女子、花盛花澄だった。
長い黒髪に緩くウェーブを掛け、後ろ髪を背中に垂らしている。色白な肌に黒目がちな瞳。しかも一五〇センチほどしか身長がないという彼女は、まるで人形のように愛くるしい。
「じゃあ、花澄はアッキーがタイプなの?」
「えっ? マジ?」
璃々の言葉に秀が合いの手を打つ。
「やだ〜〜! そんな訳ないじゃ〜ん」
「だよなー。アッキーって主夫には良いかもだけど、こっちが養わなきゃいけなそうだしな」
「わかる〜〜!」
悪意があるのかないのか、璃々と花澄、秀の三人は、きゃっきゃと楽しそうに笑う。秋帆は右手で眼鏡の弦に触れながら、三人に合わせて曖昧に笑った。
胸に引っ掛かるものがあったが、この場の空気を乱してまで主張することではない。
「でもさー、実家組は羨ましいよ。家賃も掛からないし、バイト代も全部遊ぶお金に使えるんでしょー?」
晃生がおっとりとした溜め息を吐いた。
「そりゃ楽だけどさ、親の干渉ウザいから、やっぱ一人暮らしは羨ましい。あたしも家出たかったな〜」
璃々の言葉に、晃生が大きく相槌を打つ。
「そこは良いね。実家で洋楽なんか聴いてたら、すぐ母さんに消されてアイドルの曲掛けられるのに、いまは音量さえ気を付ければ聞き放題! 最高だよー」
「そうそう、ゲームしながら電気点けたまま寝ても、小言言われないもんね」
秋帆も頷きながら、晃生の隣に腰を下ろした。
「お前ら、健全過ぎるだろ。連れ込む女もいないから仕方ねーけど」
「それはお互い様でしょー」
晃生がすぐさま切り返すと、璃々と花澄がくすくす笑う。
「でもさ、お前らオナニーやりまくりだろ? 親凸の心配なかったら、やりたい放題じゃん」
それまでの空気が一転、窓から吹き込む風が冷たくなった。
癖のない秋帆の前髪がさらさらと額を擽っている。
「ヤダ〜〜、秀くん」
「サッイテ〜〜」
璃々と花澄のふたりは空気を読みながら笑いつつも、目は笑っていなかった。
自分が言った訳でもないのに、居心地が悪い。
「秀、そういうのはさぁ」
おっとりと晃生がたしなめる。
「ゴメンゴメン、つい高校のノリで」
秀は大して悪びれる素振りもなく、形ばかりの詫びを言う。中学、高校と男子校であった彼は、たまにそのままの乗りで下ネタを口に出してしまうらしい。
女子からの圧が収まるのを待ちながら、三人は黙って講義の準備を始めた。




