序
黒い右手が、暗闇に伏せられている。
さながらその姿は地獄の扉の番犬のようであり、主人を待つ忠犬のごとく不動だった。
だが、見た目とは裏腹に、決して恭順な存在ではないことを『わたし』は知っている。扉を護りながら、それが待っているのは不純な好機。
後退りした。——後退りした、つもりだった。
だが、後ろへ引いた足の裏に、床を踏む感触はない。
いや、そもそも最初から『わたし』は床のうえに立っていたのだろうか? 落下しているのか、浮遊しているのか。天地八方を激しく掻き乱された。
床だと信じていたものが左右となり、前だと見ていたものが上下となる。身体は微塵も動いていないというのに。脳の内側——認識がぐるぐると歪められていた。
三半規管がぽっかりとなくなってしまったように、身体の平衡感覚が掴めない。
それどころか、重力すら感じない。倒れたのではなく、初めから『わたし』の身体は無重力の空間に、投げ出されていたのだ。
眼前にあった黒い手のひらが、ゆっくりと迫ってくる。『わたし』は悲鳴を上げようとし、しかし阻まれた——口を覆う何かによって。
塞がれる間際、『わたし』ははっきりと見た。後ろから伸びてきた黒い手。
それは、左手だった。
前後の黒い手は、左右で一人——同一人物の手。
『わたし』はあまりの恐怖に半ば恐慌に陥っていた。
もがいて逃げようにも、身体がうまく動かない。辺りをうっすらと覆う闇が、半透明の手のように四肢を押さえ込んでいる。
とうとう甘皮一枚までの距離に落ちてきた黒い手が、一際高く盛り上がる『わたし』の胸部に触れた。乳房を揺らすよう下から上に持ち上げる。まるで児戯のような無邪気さで豊かな膨らみを試している。
暗闇の中に見えないはずのものを見た気がした——それは醜悪で悪辣な、笑った男の口元だった。
思い出せそうで思い出せないその口元、『わたし』は彼を知っている。
恐怖が薄れてくるにつれ、ただただひたすらに気持ちが悪かった。全身を駆け巡る嫌悪感、屈辱感、羞恥心。悲鳴の代わりに『わたし』は奥歯を強く強く噛み締めた。
(——何故、何故、わたしばかりがこんな目に遭わなければならないの!)
闇に境界を引くようにくっきりと浮かび上がる『わたし』の白い裸身を黒い手はゆるゆると、しかし確実に穢していく。触れられるたびに身体と心を蝕んでいく。
しかし、『わたし』は決して助けを求めはしなかった。そんなことをしても誰も助けに来ないことを知っている。
これが十何度目かの夢であると思い出していたから。
だから、助けを呼ぶ代わりにひたすら祈った——早く瞼が開きますように。




