3 くせものふたり ≪一日目 昼≫
二時限目が終わるなり、秋帆はバックパックを肩に掛けながら立ち上がった。
「じゃあ、僕はこのあと用事があるから」
「アッキーが珍しいね」
友人である甲斐晃生が不思議そうに首を傾げる。
「なに? もしかしてカノジョ?」
「えっ、カノジョ? 気になるかも!」
西尾璃々《りり》、花盛花澄の二人は各々面白がっているようだった。
「アッキーくんに彼女できたら一回会わせてみてよ。審査したげるから!」
花澄は上から目線――身長が一五〇センチしかないので秋帆を見上げる格好だが――で、鼻を鳴らした。
秋帆が一ヶ月半前に巻き込まれた騒動で、彼女が親しくする先輩が深刻な加害事件に遭ってしまった。そのことで深く落ち込み、二週間近く休学していたが、最近はようやく人前で笑顔を見せるまで気を持ち直していた。
心の傷はそう簡単に癒えるものではないが、彼女の笑顔がふたたび見られるようになって、本当によかったと思う。
そして、この大学で秋帆の霊感のことを知っているのは、朱緒と花澄、件の休学中の先輩――美雨の三人だけ。花澄は約束を守り、晃生や璃々にも口外していなかった。
義理堅い一面を知ることができて、彼女への信頼感が生まれていた。
「そのときは宜しくね」
秋帆は返事をしながら鞄を背負い、教室を後にした。
先に廊下へ出ていた朱緒の後ろ姿を見付けると、人々の流れに乗って付かず離れず付いていく。同じ一年の学部生が少なくなるのを見計らい、ようやく彼の横に並んだ。
「お昼、いつもどうしてるの?」
「あの三人に鉢合わせするのも気まずいだろ、オマエに合わせる」
秋帆は少し考えた。
月曜日の今日は、大学近くのカフェでデザートの割引がある。晃生はそこの抹茶パフェの虜で、割引の日はかならず並んでまで食べに行っている。秋帆や花澄と璃々も、それに付き合って、カフェでランチを食べることが間々あった。
女子組だけで別行動する場合もあるが、キャンパス外でお昼を摂ることがほとんどだ。
「じゃあ、学食行こうか」
講義棟から一歩外に出ると、耳をつんざくほどのけたたましい蝉の鳴き声が聞こえてきた。太陽に軽く炙られるだけで、肌がちりちり痛んで汗が滲む。
朱緒は鬱陶しそうに目を細めて、キャップを目深に被っていた。
教育棟は本館や食堂と少し離れており、移動距離が長い。ふたりは人の流れに乗りながら、なるべく日陰を選んで歩いた。
その途中に小さな林があり、日の高い時間帯に於いても薄暗い。昼夜問わず常に何体かの死霊がいるのだが、今日は心なしかいつもより多く集まっている気がした。
そこでは一切蝉も鳴かず、不気味なほどに静まり返っている。
普段は気にも留めないのだが、今日は御守りの加護がない。無防備な己に集まって来ているような気がして、朱緒の傍に一歩近付いた。
「ビビんな」
「そうなんだけど、やっぱり怖くて……」
今朝はどうにか持ち堪えたが、そう日に何回も憑依されかかるのは御免だ。
幼い頃から秋帆は死霊に取り憑かれたことが何度もあった。完全に憑依されると死霊の感情が流込んできて、己が保てなくなることが常。
深い自殺願望に支配されたこともあった。
訳の解らない激痛にもがいたこともあった。
自我を失い獣のように暴れたこともあった。
――自分の意思ではどうしようもなくなることが、堪らなく恐ろしい。
その恐怖を朱緒が理解できないのも無理ないが、少しだけ羨ましいと思ってしまった。
そう思ってしまった瞬間、秋帆は心の中で首を振る。
他人とは違う何かを『持っている』ということは、余計なモノも背負い込んでしまうのだということを、秋帆自身、身染みて感じている。朱緒もまた、彼とは別の重荷を背負っていることだろう。
こっそりと、諦めの溜め息を溢した。
秋帆が一番に羨んでいるのは、霊を視ることもなく、振り回されることなく、日常を過ごせる人――つまり、『普通の人』だ。
食堂に入ると、今日は学外に流れているのか、いつもより混雑が少なかった。
秋帆は日替り定食を頼み、朱緒は鞄から弁当箱を出して席に座った。
「……観池くん、食欲ないの?」
朱緒の前には、黒い弁当箱がひとつ――弁当箱の大半を占める白米とお漬物、隅の方に青物と油揚げとニンジンのおひたし。まるで動物性蛋白質皆無の弁当を見て、秋帆のお節介が思わず顔を出してしまった。
「いや、別に……」
彼にしては歯切れが悪い。
「蛋白質摂らなきゃ夏バテしちゃうよ」
「お揚げは蛋白質だろ。つか、朝っぱらから憑依され掛けてた奴が、よく肉なんか食えるな」
秋帆の前には日替り定食の豚のしょうが焼きとご飯、味噌汁、茄子のムニエルが盆のうえに乗っていた。
「体力をごっそり削られていくから、なるべく肉を食べるようにしてるんだ。伊達に十九年もこんな体質やってないよ」
「弱いんだか、逞しいんだか、わか……」
呆れていた朱緒の顔からすっと表情が消えて、視線が何故か上の方にずれてそのまま止まった。何が『いる』のだろうかと、つられて秋帆の視線も上に上がる。
「わっ!」
突然、大声で肩を叩かれ、秋帆の心臓が止まりかけた。
大きく脈打つ心臓を押さえながら後ろを振り返ると、そこにはカフェにいるはずの友人の姿があった。
「コーセーくん……?! ……びっくりした」
「こう、無防備な知り合いの後ろ姿を見ると、驚かしたくなるのって、人間としての本能だよねー」
「もう、本当にやめてよ……」
こうして彼に驚かされたのは一度や二度ではない。その度に秋帆の心臓は縮み上がり、一回ごとに数分ずつ寿命を短くしている気がする。
心の底からやめて欲しい悪癖なのだが、いまのところ晃生がやめる気配は一切ない。
「どうしたの? 花澄ちゃんと、璃々ちゃんは?」
「ふたりともカフェで食べてる。自分もあっちで食べようかと思ってたんだけど、宇治抹茶金時パフェが品切れしてたんだよ!」
晃生が大袈裟に嘆いて見せた。
「だから、拗ねて食堂に来た。カフェの食べ物って量が少なくて食べた気しないし。宇治抹茶金時パフェのないカフェに用はないからねー」
「なるほど……」
一通り持論を熱弁した後、彼の視線が朱緒に向いた。
「そんなことより、彼と仲良かったんだ」
目の前で自分が話題にされている関わらず、自分は無関係だとでもいうように朱緒はせっせと白米を口に運んでいる。
「仲が良い、のかな……」
晃生を前にして“友達”と言う勇気が持てず、曖昧に返してしまった。少なくとも、秋帆は友人だと思っているのだが、朱緒の方はどう思っているだろうか――ちらりと彼の顔を窺い見るが、黙々と食べているばかりで何を考えているのか、まるで分からない。
「観池くん、だよね? 覚えてるかどうか解らないけど、同じ学部の甲斐晃生だよ。向かいの席いいかな?」
「どうぞ」
断りを入れてから、晃生は後ろのテーブルに置いていたトレーを秋帆の隣に置いた。秋帆と同じ日替り定食と、杏仁豆腐が乗っている。
「アッキー、この後の空きコマどうする?」
「再来週からだし、そろそろ試験勉強しなきゃね」
秋帆の表情が曇るなか、晃生はその言葉を待っていましたとばかり、得意気ににやりと笑う。
「ひれ伏せ! 下々の者~~」
晃生は鞄を持ち上げると、クリアファイルをちらりと見せた。それが何であるのかすぐに察した秋帆は眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「もしかして、それ……!」
「そうだよー! サークルの先輩に貰った、総合英語の過去問!」
「神様、仏様、コーセー様!」
秋帆は両手を併せて晃生を仰ぎ見た。
「良か良か。あの先生、結構意地悪な問題出すらしいからねー」
「しかも、問題用紙は回収するから、過去問もレアなんだよね……」
『総合英語』は共通必須科目だ。それまで我関せずとばかりに漬物をぱりぽりと食べていた朱緒の箸が一瞬止まった。
晃生の細い目がそれを見逃さず、じっと朱緒の方を向いている。
「観池くん、どうする? 見る?」
朱緒は一拍の間を置いて顔を上げた。
「見せて貰えるなら、有り難いけど」
「目の前でアッキーに見せてるのに、観池くんに見せないとか、そんな意地悪な真似しないよー」
晃生は細い目をますます細め、いつもの飄々とした掴み所のない笑顔を向けた。若干、胡散臭く見えなくもない。
その表情に何か裏があるのかと読んだ朱緒の表情が、みるみる険しくなった。
「……何が対価だ?」
「わあ、見てよ、アッキー。ここまで警戒してる人の顔見るの初めてだよ! なんか詐欺師になったみたいで新鮮だねー」
「コーセーくんと初めて話す人はだいたい、おんなじ反応だと思うな……」
春以来、久々の新鮮な反応に、晃生は満足そうに目を細めていた。
「でもそうだなー。せっかく観池くんが対価をくれるっていうなら……」
晃生はわざとらしく顎に手を当てながら悩んでみせる。こういう時はすでに彼の中で決めていることを、秋帆は知っていた。
とはいえ、無茶を言うような彼ではないことも知っている。
「五時限目が終わったあと、予定ある?」
「いや……」
何を言われるのか、敏感に察した朱緒は警戒心を露にした。
「五時限目の授業のあと、親睦を深めるために三人でゲーセン行かない?」
眉間の皺を深くし、目を細めて拒絶を露にしている朱緒に、晃生はまったく臆する様子がない。
「嫌だと言ったら?」
「自分はそれ以外何も望まないから、嫌なら無理しなくていいよー。最初にも言ったけど、観池くんに見せないような意地悪はしないし。はい、過去問」
和やかな晃生の笑顔に対し、朱緒の顔色を見れば主導権をどちらが握っているのは一目瞭然だ。
「……ゲーセンだけだぞ」
「じゃあ、交渉成立だねー」
朱緒は差し出された問題用紙を渋々受け取った。
「じゃん、僕も! 発達心理学の過去問。昨日、バ先の先輩から貸してもらった」
タイミングを見計らい、秋帆も昨日手に入れたばかりの戦利品を取り出した。
「でかしたアッキー」
「……本当に、本っっ当に、今朝はこれのせいで大変だったんだ……」
「もしかして、泊まりで介抱してたの? 先輩、酒癖悪いって言ってたもんねー」
それは、心の底からの言葉だった。
これがなければ先輩の飲みに付き合うことはなかったし、そうなればきっと御守りが焼かれることもなかった。秋帆は今朝から数時間の霊障を思い出し、少しだけ涙が出そうになってしまった。
今朝、という言葉に朱緒はすぐに思い当たったようで、少しばかりの同情の笑みを添えて、秋帆の肩を軽く叩いてきた。
「橘の災難を無駄にする訳にはいかないな」
「そういうことだねー」
晃生もまた、慈悲の笑みを浮かべて秋帆の肩に手を置いた。
「……ふたりともさ、もうちょっと慰めてよ……」
秋帆をダシにして、ものの十分で連帯するこのふたり、どこか似ているところがあるのも知れない。




