2 錆と死霊 ≪一日目 朝≫
彼は一時限目――朝九時から授業のある日は電車の通勤ラッシュの時間を避け、七時半には着くように、かなり早めの時間から登学していた。
そんな時間からキャンパス内にいるのは、警備員かサークル棟に棲んでいる数人くらいのもので、基本的には誰とも顔を合わすことはない。大学周辺の散策や、気候が良ければ軽い運動にはいい時間だ。
しかしここ最近は、施設が解錠されるまでは学内にあるカフェのテラス席を陣取って、再来週から始まる前期の試験勉強をするのがルーティンとなっていた。
当然ながら教室に入るのは常に一番乗り。誰もいない教室を後ろから見渡すのは、気分が良いものだ。
観池朱緒はメッセンジャーバッグを肩から下ろすと、まだ誰もいない教室で堂々と大きく口を開け、欠伸と背伸びをした。
――否、誰もいないというのは、朱緒の油断だった。
教壇近くの入り口から、ひとつの人影がずるずると這い出して来た。
よく視れば、その人影の右肩から、土気色の腕がだらりと垂れている。
「……橘?」
気まずさを覚えたが、それが顔見知りであったことにほっと息を吐いた。
それはそれとして、一体なぜ彼がこれ程早く教室に来ているのだろうか。
それより何より、一体なぜ背中に女の死霊を乗せているのだろうか。
「……観池くん、おはよう。早いって聞いてたけど、本当に早いね。でも、お陰で助かった……」
秋帆は椅子に座る気力もなく、背中の女に潰されていくように、そのままずるずると床にしゃがみこんでしまった。死霊の身体が、半分近く秋帆の背中に入り込んでいる。
今のところ、彼の自我はあるようだが、完全に乗っ取られるのも時間の問題だ。
この状態で彼にあれこれ問い質すのは酷に思われて、朱緒はペンケースからカッターナイフを取り出した。
誰もいない時間で本当に良かった。
「動くなよ」
警告したが、秋帆に動く気力はないようだ。
朱緒はカッターナイフの刃を限界まで押し出した。その刃を死霊の身体に押し当てる。
手応えはあるが、まるで豆腐でも切っているような脆い感覚で刃が通っていった。そして、適当なところで秋帆の身体から切り離す。
霊体から血が出るようなことはないが、断面はいやに生々しい。腱や骨髄、筋肉、内臓がはっきり視えて、まるで解剖書を見ているようだ。
すると、下半身を切り離された女は切断面を押さえて小刻みに震え始めた。死霊に痛覚はないはずだが、苦痛はあるのかも知れない。
その時、髪の毛に隠れていた女の顔がゆっくりとこちらを向いた。前頭部の一部がひしゃげ、顔面は真っ赤な血で染め上がっている。欠けた頭部の隙間から垂れているのは、前頭葉の一部だろうか。
朱緒は怯むことなく、あらぬ方を見る眼球を睨め付けた。
「去れ」
簡潔であるからこそ、強い『咒』が籠る。
不安定に震える像が幾つにもぶれて、死霊は透けるように消えていった。
だが、秋帆の身体から切り離しただけで、祓った訳ではない。教室の外で、浮遊霊として漂っているだろう。
カッターナイフ一本でできるのはここまでだ。先ほどまで新品だったはずの刃は、血液で酸化したようにぶ厚い錆が浮いていた。
こうなると、もう使い物にならない。
「……うるさく言いたくないが、護符はどうした?」
死霊が離れたとはいえ、彼の具合はまだ悪そうだった。
「それより先に、お礼を言わせてよ……」
青ざめた顔の秋帆は、朱緒の様子に微苦笑しながら、礼を言った。
そしてポケットから、一部が茶色く変色した御守りを出してきた。焼けているのか、焦げ臭い匂いがしている。
以前視たときは、相当の霊力が籠められていたはずだ。それがいまや、真っ白に燃え尽きた薪に残る熾火のごとく頼りなく。そのわずかに残った効力も失われつつあった。
――否、尋常の護符ならとうに失われていただろう。
この護符は寸でのところで秋帆を護っている。これを書いた坊主は、余程の術者に違いなかった。
「今朝、帰り道で突然焼けちゃったんだ」
「焼けた?」
朱緒は秋帆に断りを入れ、中に入っている護符を取り出した。
確認すると折り畳まれた半紙が半分以上、真っ黒に焼けている。いまにもぼろぼろと崩れていきそうで、拡げるのは諦めた。
燃え方から見るに、御守りは外から燃やされたのではなく、内から発火したようだ。
「すぐ家に電話して新しい御守りを送ってもらうように頼んだんだけど、書いて送ってもらうのに一週間掛かるみたいで……」
秋帆は言いづらそうにしながら、上目遣いで朱緒の顔を見ている。
「……その間、俺の家に泊めろってか?」
「はい、お願いします……」
「一週間は長過ぎるだろ」
「そこを何とか……」
秋帆は床に座り込んだまま、しずしずと頭を下げた。
土下座だ。
もし、教室に入ってきた人がこの光景を見たとすれば、朱緒が秋帆に強要していると誤解されるに違いない。
その姿は一見しおらしいが、退く気配は微塵もなく、一種の脅しとなっていることに彼は気付いているのだろうか。
だがしかし、ここまで必死になる理由も理解できる。秋帆にとっての御守りは、なくてはならない日常生活の必需品。言わば、近視乱視者の眼鏡やコンタクトレンズ、聾唖者の補聴器。
護符があるからこそ、死霊に憑き纏われる程度で済んでいるし、外を歩くことができる。
「予備はどうした?」
「予備は鞄に入れてたんだけど、そっちも焼けちゃっててどうにもならなかった……」
朱緒の顔は苦々しげに歪んでいたが、答えは最初から決まっているようなものだった。
「……分かった。護符がどうにかなるまで、泊めてやるよ。毎日、こんな姿視せられる方も気分悪いしな」
「ごめん……本当に助かる」
やはり一ヶ月半前のあの日、秋帆に手を貸すべきではなかったと、思わず舌打ちが出た。
しかし、過去を悔やんでも巻き戻るものではない。
「……あ、ついでだけど。コピーしたから返す」
朱緒はちょうど良いとばかりに、鞄からファイルを取り出した。秋帆から借りた『教育概論』や『環境教育』等々、前期試験の過去の問題用紙だ。
「本当にこんなので良かったの?」
「過去問貰う伝がないから、助かった」
ふたりが初めて言葉を交わす切っ掛けとなった一ヶ月半前、秋帆はどうしても礼をしたいと強く申し出た。朱緒は断固として拒否したが、秋帆もまったく退かず、ふたりで考えた末に前期試験の過去問題を回してもらうということで、どうにか落ち着いのだった。
「今回のお礼も過去問で大丈夫?」
「そうしてくれると助かる」
秋帆の持ち込んでくる厄介事には頭が痛くなるが、恩恵もあるために邪険にしきれないところがあるのは、確かだった。




