1 うつろう空 ≪一日目 早朝≫
彼を見付けたのは、本当に偶然だった。
この時間に起こされることはもうなくなってしまったが、染み付いてしまった薄明薄暮性のような生活習慣。そのなかで、早朝の街をいつものように散歩していたときだ。
日が昇るまでのわずかな時間、ほとんどの生き物がまだ寝静まっている街を歩いていると、闇に守られているような安心感があった。
自分は誰かに姿を見られるのが、怖くて堪らない。姿を見られなければ――目視で認識されなければ、標的とされて、加害されることはない。
闇のなかで息を殺して隠れていれば、何もされず通り過ぎて行ってくれるのだ。
姿を晒されるのが恐ろしくて、自ずと街灯をなるべく避ける散歩コースとなっていた。
そんな夜明け前の暗闇のなかで見つけた他人の姿、なぜ彼だと判ったのかといえば、手に持った光源に照らされる彼の顔を見てしまったからだ。
垣の裏の闇に隠れていた自分の存在に、彼はまったく気付いていなかった。
――見付けた、と思った。
彼の急所となるところ。
自分の小さな小さな牙でも通りそうな柔い首筋。
そのときの驚きと喜びたるや。いまにも飛び出したくなる興奮を押し殺して、闇に隠れ続けた。
その日は後をつけて、彼の家を把握した。
翌日から、彼の家を見張り、ときに後をつけるのが日課となってしまった。
そして、彼が行動範囲を広げるたびに秘密の価値が大きくなり、自分もまた強くなっていくような感覚を覚えた。
――しかし、まだだ。まだ小さい。
もっと、もっと、さらに激しく広がらなくてはならない。
自分が与えられた恥辱、絶望、苦痛、憎悪はこんなものではない。彼を地獄の業火に引きずり込むまで。そのためなら、幾らでも待ってやろう。
ずっと闇に隠れ続けることには、慣れている。
――ああ、また今日も彼は火を灯している。
自分はそれを嬉しく思いながら、闇からずっと見つめ続けていた。
◇
東の空が刻々と色を変えており、それにあわせて周囲の風景も明るくなっていた。もう数分もすればビルや家の間から、朝日が射し込むだろう。
まだ涼しい時間だというにも関わらず、昨日から風呂に入っていないせいで身体中がべとべとしてすっきりしない。
早く汗を流したい――橘秋帆はずれる眼鏡を直しながら、帰路を急いでいた。
昨夜はシフトを終えてから、アルバイト先の先輩に付き合って居酒屋でずっと話を聞いていた。
勿論、彼はアルコールには口をつけず、烏龍茶を飲んでいた。夕食を奢ってもらったとはいえ、深酒をして前後不覚になった先輩をお手洗いで介抱したのは、なかなかにしんどかった。
店を出てた後、先輩を引きずるようにしてどうにかアパートに送り届けてそのまま一泊したあと、始発の電車でようやく帰ってきたのだった。
一泊したとはいえ、睡眠時間は二時間ほど。気疲れと肉体的疲労で、いまにも精も根も尽き果てる寸前だ。
帰ったらシャワーだけ浴びて一時間でも横になりたい。今日は一時限目から授業が入っているため、寝坊はできなかった。
しかも、再来週に控えた前期試験の範囲発表があるかも知れない。
そもそもを言えば、昨夜遅くまで先輩に付き合ったのも、彼から過去の前期試験の問題用紙を手に入れるためだった。
風に乗り、遠くで鳴る消防車のサイレンが聞こえてきた。
長野から上京してきてすぐの頃は、毎日聞こえるサイレンの音に驚いていたものだが、いまやもうすっかり慣れてしまった。これが彼の日常だ。
サイレンの先の誰かを心配することなく、彼自身がいますぐ休むことだけを考えてしまっている。
そんなことを考えていたせいで、気が散漫になっていた。
もうわずかな距離だった――異様なモノの気配に、秋帆はようやく気付いた。
四辻を曲がってアパートが目の前というところ、ほんの数メートル先のブロック塀の上に黒い蜃気楼が立ち上っている。
秋帆は動揺したが、ゆっくりと下を向く。
目を合わさなければ大丈夫、大丈夫――そう自身に言い聞かせ、歩くスピードを一定に保った。
(――いま、通り過ぎた)
ソレは警戒するように身を低くしてしばらく秋帆を見ていたが、やがて木の影から影へと跳び去っていった。
気配が遠ざかったことを察した秋帆は、ほっと息を吐いて全身の力を抜いた。
一瞬しか視えなかったが、恐らくは獣の死霊。暗くうねる光を帯びているように視えた。
その死霊自体には害意を感じなかったが、善くないものであると確信できる。獣に随伴していた黒い焔は、間違いなく人間の死霊だ。
何にせよ、杞憂だったことに胸を撫で下ろした。
ところが次の瞬間、秋帆は何かが焦げたような臭気に気付いた。心なしか、カーゴパンツのポケットが熱い。彼は慌ててポケットに入れていたもの――御守りを取り出した。
鼻に近付けて嗅いでみると、焦げた匂いは確かにその御守りから漂っていた。
嫌な予感がする。
御守りを握り締めると、秋帆は一目散にアパートへ向かって走り出した。




