終
秀が大人しくなってから、秋帆はナースコールを押した。
すぐに駆け付けた看護師たちは秀をベッドの上に担ぎ上げ、どういう状況なのかと訊ねていたが、彼はまったくの無気力で喋ることも立ち上がることもできず、されるがままになっていた。
秋帆は看護師に突然彼が暴れたので抵抗した、とだけ説明した。
彼の母親がすぐに飛んできたが、秋帆の首の痕を見せると大事にはしないで欲しいと謝罪、懇願され、朱緒が蹴り飛ばしたことも不問にされた。
本来なら秀も朱緒も何らかの処分があったのだろうが、これで良かったのか秋帆には分からなかった。
そして、憔悴し切った秀を残し、秋帆と朱緒のふたりは病院を後にしたのだった。
面会時間を過ぎた病院玄関前のバス停には誰もおらず、秋帆と朱緒のふたりでベンチに座った。
時刻表を確認するとバスが来るまで、まだ十分ほどある。
「……観池くん、秀くんと何を話してたの?」
秋帆は気になっていたことを訊ねた。ふたりの間では成立しているようだったが、ベッドを挟んで向こうから見ていた秋帆にはほとんど聞こえず、どういうやりとりがあったのか分からなかった。
きっと、あのときの朱緒の言葉が秀の心を挫いた。
「何でも俺に聞くな」
取り付く島もない。彼の声からは断固とした拒絶があった。
気にはなったが、『聞くな』ということは、知らない方が良いと彼が判断したのだ。そこには彼なりの配慮や理由があるに違いない。
これ以上問い質すのは気が引けた。
「……言っても無駄だろうが、『先輩』のことはオマエが気に病む必要はないからな」
朱緒から放たれた言葉に、秋帆は目を丸くした。
彼が意地悪な人間でないことは充分解っていたが、人を気遣うような言葉を掛けられるとは少し意外だった。
「たまたま部屋で襲われたが、外で襲われる可能性だってあった」
「……うん、分かってるよ」
口ではそう言ったが、やはり割り切ることは難しい。
それを見抜かれてのことか、それとも秋帆の態度が分かり易いだけなのか、朱緒が疑わしげな目で見ている。
「秀くん、良くなるかな……」
「さぁな、アイツの気力次第だろ」
まさかあのまま廃人になるのではないかと、心配になった。
「復活したとして、ソイツが『先輩』の次のストーカーにならないとも限らないけどな」
「……そんなこと言わないで。友達なんだ」
「呆れた…… そんなことされても、まだトモダチかよ」
朱緒の視線は秋帆の首を見ていた。
驚くことに、この三日間治らなかった赤黒い痣はすっかり消えて、今日絞められたばかりの痕が残っているだけだ。
つまり、秀から秋帆への執着が完全になくなったということだ。それが少しだけ寂しいと思ってしまった秋帆は、どこかおかしいのかも知れない。
だが、たった二ヶ月の間ではあるが友人として同じ時間を過ごしていたのだ。これまでの関係性すら秀の心のうちから消えて無くなったように感じられて、寂しくなってしまった。
「それでも、僕は友達だと思ってる」
いつか彼が帰ってくれば、友人として迎えることに迷いはない。
「……それに秀くんの気持ちも、ちょっとは分かるから」
朱緒は呆れたように目を細くした。
「そもそも、方法を間違えてんだよ。本当に誰かを守りたいなら自分の身体を張るべきだった。呪詛なんかに頼ったのが悪かったんだよ」
「……」
朱緒の言うとおりだ。呪いは呪いを呼ぶ。その場を凌いでも後回しにしているだけで、多くの場合、行き着く先は不幸な結末だ。
「でも、誰もが好きな人に認めてもらえるわけじゃないし、守りたくても守れないこともあるよ。……人を守れる力があったり、自分に自信のある人ばかりじゃないんだ。陰ながら誰かを守りたいって気持ちは、悪いことじゃないと思う。――その方法が、邪道だったとしても」
秋帆にしては、はっきりとした強い口調だった。もしかすると、朱緒を非難するように受け取られたかも知れない。しかし、それで良いと思った。
彼を否定したかった。正し過ぎる彼を――その正しさは万人のものではないと、否定したかった。
「オマエのお人好しは死んでも治らないだろうな」
ふと視線を感じて横を見ると、朱緒が遠くを見るような目をして、ほんの微かに笑っていた。
その瞬間、初めて彼の弱いところを見てしまった気がした。
「治らなくてもいいよ」
ほろほろと、今にも崩れてしまいそうな微笑みに、秋帆は柔らかく笑みを返した。
そして、その万人には彼――朱緒も含まれているのだと言いたかったが、できなかった。
その言葉を伝えるには、秋帆はまだあまりにも彼のことを知らない。
朱緒は何も言わず目を背けると、定刻通り交差点を曲がって来たバスを見やった。
「バスが来たぞ」
「その前に」
秋帆はそう言うなりベンチから立ち上がると、朱緒の前に立ち塞がった。
「僕の名前は橘秋帆――眼鏡呼びはやめて欲しいかな」
その日、橘秋帆は友人をひとり失い、ひとり新しく得たのだった。
終わり




