12 悪夢
「──ハッ」
ところが、それまで静かに二人のやり取りを聞いていた朱緒が、突然可笑しそうにくつくつと声を上げて笑い始めた。
「――何がおかしいんだよ?!」
朱緒の豹変に秋帆と秀は困惑して、彼の顔を見上げた。いまの話のどこに笑うところがあったのか、ふたりにはまったく理解できなかった。
「……黙って聞いてりゃ、自分の下心を棚に上げて、よくもコイツを責められたな」
美雨のことをまったく気にする素振りもなく、朱緒は口の端を吊り上げて、失笑まじりに秀を見下ろしていた。
完全に力の差を認めているのか、秀は怯えたように肩を竦めた。
「その『先輩の部屋』を守ってたと言ったな?」
「……だったら何だ!」
秀は精一杯の虚勢を張った。
美雨の部屋を守っていたというのは、彼にとって唯一の自負だ。
「どうやって守ってたんだ?」
「ネットにあったおまじないを試して……」
「そういう話じゃねえよ」
冷たい声で、秀の言葉を遮る。ここまで来て保身かよ、と小さく呟いて舌打ちした。
「その『おまじない』とやらで、どうやって守ってたんだ?」
「……知らねえよ」
「夢を視たんじゃないのか?」
「――は?」
夢のことを持ち出した途端、明らかに動揺した秀は言葉に窮したようだった。
秋帆もまた、夢という言葉に身を竦め、首の痣に触れた。川で秀の生霊に襲われたのも、夢の中だ。
「しらばっくれるなら、何の根拠があって『先輩の部屋』を守ってたって言ったか、納得できる説明ができるんだろうな?」
「それは……」
急に語勢の弱くなった秀だが、開き直ったかのように 朱緒 の言葉に同意した 。
「……ああ、そうだよ。テメェの言うとおり、先輩を守る夢を見たんだよ」
「ただ見てただけじゃないだろ、意識的にコントロールしていた。……そうだな?」
朱緒が嘲るように薄く笑うと、彼はそれでも食ってかかった。
「誰がなんと言おうと、俺は先輩を守るためだったんだ。現に、おまじないが効いている間、ストーカーは部屋のなかに入れなかっただろ!」
「言い訳はそれだけか?」
「さっきから、勿体ぶった喋り方しやがって! それが事実だろ!」
朱緒の言わんとしていることを薄々察してか、秀は怯えたように震えながらも必死に睨んでいた。
「おい、眼鏡。その『先輩』は『悪夢を視る』と言ったんだったな?」
「……うん。その悪夢にすごく怯えてた」
突如『眼鏡』呼ばわりをされて驚いたが、秋帆はしっかりと頷いた。
「きっと、悪夢のモノを現実でも見てしまったから、あれほど怯えていたんだと思う」
「黙れよ……! それが何なんだって言うんだ! 先輩はストーカーに襲われたんだ! 夢なんかどうでもいいだろ!」
口を塞ぐため、朱緒に飛び掛かったが、朱緒は秀の身体を避けることなく、逆に彼の胸ぐらを掴んだ。
そして、感情のないひどく冷たい声で、秀の耳元――彼にだけ聞こえる声で囁いた。
「夢のなかで、その女に何をしていた?」
「――ッ!」
秀は朱緒の朱色の瞳に睨まれ、四肢を縫い止められたように身動ぎひとつできなくなった。
まさに、蛇に睨まれた蛙。
「夢だから『何をしても良い』――そう思ったのか?」
「……いや、違……っ」
素人が故の浅はかさに、朱緒は失笑を禁じ得なかった。
生霊を飛ばすということは、自分自身の魂の一部を飛ばすということ。その生霊が何らかの理由で害われた場合、肉体にも相応の負荷が掛かる。
異常に窶れ果てたこの姿も、朱緒に斬り祓われた影響――つまり自業自得だ。
唯一彼を誉めるところがあるとすれば、それを意識的にコントロールしていたことだ。ほとんどの人間が同じ呪詛を掛けたとしても効果は現れず、現れたとしても無意識なので夢を視ることもない。
それだけに留まらず、霊感のある人間──秋帆にまで呪詛を掛けようとしたのだから、恐れ入る。
なまじ呪術の才能があったせいで、ここまでの大事になってしまった。
「無抵抗の女をなぶるのは、愉しかったか?」
秀の身体のなかで唯一動く表情だけが、醜く引き攣っている。見開かれた瞳から、涙が滑り落ちた。
「恥辱の疵は、夢も現実もそう変わらないぞ」
心臓ともいえる核心を掴まれ、秀の身体から力が抜けていく。
──こいつはどこまで知っているのか?
朱緒は襟首を掴んでいた手を離した。秀の身体は腰が抜けたようにへなへなと、床に座り込んでしまった。
しかし、彼の目は朱緒の瞳を捕らえたまま、離すことができない。
「どれだけ綺麗事をほざこうが、オマエはストーカー以下のゲス野郎だ」
目の前の赤い眼球が──ただの感覚器官のひとつが、秀には堪らなく恐ろしかった。
人間の眼球に似せて造られているが、本質はまったく別のもの。そんなものを目の前にして、欺くことなどできるはずもないと秀は悟り、抵抗をやめた。
最初の頃は、本当に美雨を護りたい一心だった。そこに一切の下心はなかった。秀は藁にもすがる思いで、おまじないに手を出したのだ。
そしてある時から、不思議な夢を視るようになっていた。
秀は白昼、誰もいない美雨の部屋にいた。しかし、誰かが——美雨ではない誰かが——部屋に入ろうとしている。恐る恐るドアスコープを覗くと、扉の前には真っ黒な化物が立っていた。
『絶対にこいつを部屋のなかには入れてはならない』——本能が告げている。
秀は鍵が開きそうになるたび、鍵を掛け直した。下らなくて小さな抵抗だったが、必死だった。
そんな夢を二、三度視たあと、夢の内容に少し変化があった。誰もいなかった部屋のなかに、美雨が現れたのだ。
時に、彼女はカメラの手入れをしていたり、風呂上がりの薄着姿であったり、静かに眠っていたりした。
そしてとうとう、彼女が眠っているとき、秀は思いきってその身体に触れてしまった。柔らかい肉体は魅力的で、起きている時には決してできないことを、その両手でした。
それがやたらリアルな夢で、起きた後はいつも夢精していた。
あれは夢だ——ただの夢だと、そう思っていたのだ、本当に。




