11 病院にて
秀は区内の総合病院の個室に入院していた。
どれほど重傷なのかと心配したが、病室の扉を開けると彼は身体を起こしてスマートフォンを触っていたので、ひとまず安堵した。
「秀くん、大丈夫?」
「おう、わざわざ来てもらって悪いな。五日は安静って言われて、売店にも行けなくてイライラしてたんだよ」
意外に元気そうだと思ったが、彼の顔を見て驚愕した。怪我ではなく、病気だと言われた方が納得できるような変わり様だった。
顔全体の血色が悪く、頬は痩け、目の下に真っ黒な隈が浮いている。まるで何週間も絶食したような窶れ方に、秋帆は絶句した。
たった数日見ぬ間に、人はこれほど豹変するものなのだろうか。
しかし、そのことに触れて良いものかどうか分からず、秋帆は動揺を隠しながらコンビニの袋を渡した。
「おっ、カツ丼と焼肉弁当じゃん。うまそー」
「……ずっと既読も付かないから、みんな心配してたんだよ」
「自転車に突っ込まれたなんて格好悪すぎて、連絡なんてできねぇだろ?」
「そんなことないよ。突っ込んできた自転車が悪いんだろうし」
「ははは、それは絶対そうだ」
秀は笑っているようだったが、落ち窪んだ目がぎらぎらと不気味に光り、まるで地獄の餓鬼のように見えた。
「あ、悪いんだけどそこの机、こっちに寄せてくんない?」
そう言われて振り向くと、ベッドの足元にコマ付きの横に広い机が置かれていた。
「これ?」
手を伸ばしながら秀に背中を向けたその瞬間、首に何かを掛けられた。
何をされたのか訳も分からず、そのまま後ろに引き寄せられて転倒しかけたが、首を固定されているせいで倒れることはなかった。肩越しに、荒い息遣いが聞こえる。
秋帆は反射的に首に掛けられたものを外そうとした。感触的にタオルだろうか──ところが、固く締められた布に指を掛けることができず、何度も何度も布越しに首を引っ掻いた。
「しゅ、く……ど……」
「オマエのせいで…… オマエが、オマエが、余計なことをしやがったせいで……!」
酸素の供給を絶たれた秋帆の脳に、秀の声は届いていなかった。
だが、秀はそんな事にも気付かず、なおも言葉を続けた。
「幽霊が見えるなんて嘘なんだろ? 何でそんな嘘つき野郎がマジに見付けてんだ……! 俺は、日下部先輩を守ってたんだぞ!! あの部屋を、ストーカーから!!」
最初は声を抑えていたが、徐々に抑えがきかなくなり、最後は絶叫に近い声を上げていた。
「なのに! オマエが余計なことをしたせいで、先輩ガ……ッ!」
語尾が、突如呻き声に変わった。
秀の左横腹に抉られるような衝撃——彼自身、自分がどうなったのか理解できず、受け身を取るすべもなくベッドの下に落とされた。
どうにか頭は腕で庇ったが落とされた瞬間、彼は息ができなかった。混乱のなか、床に打ち付けた身体の痛み耐えながら、奥歯を噛んだ。
「これ以上暴れると、怪我が増えるぞ」
「……誰だッ?!」
痛む右肩と脇腹を庇いながら床に手をついた秀は、ベッドの上に立つ男を忌々しげに見上げた。
こちらを見下ろしている赤朽葉色の髪の男——顔に覚えはあった、たしか同じ学部の生徒だ。だが、名前は知らない。
おそらく、この男にベッドから蹴り落とされたのだ——秀は痛む脇腹を押さえた。
なぜ、赤の他人にこんなことをされなければいけないのか。その理不尽に怒りが噴き出してきた。
「誰の断りで入ってきてんだよ?!」
しかし、男は秀の言葉を無視してベッドから降りると、秋帆の方を向いていた。
「観池く……、ど……して、ここに……」
秋帆の首に掛かっていたタオルが緩んだ瞬間、絞まってた血管と気道が拡がり、意識はどうにか繋いでいた。十秒も絞められていなかったはずだが、それでも頭がくらくらした。
生霊に首を絞められたときとは、比べ物にならない力だった。秋帆は激しい咳と呼吸を繰り返しながら、朱緒を見上げた。
「首の痣が消えてないってことは、生霊の執着が消えてない証拠だ。厭な気がして後をつけたら、案の定……」
朱緒は秀を一瞥した。まだ立ち上がることができない秀は床に踞り、ふたりを睨んでいる。
「こんなことなら、両腕を斬り落とした方が良かったな」
朱緒は情け容赦なく、侮蔑の目で秀を見下ろしていた。
「何のこと……?」
秋帆は、この期に及んで理解していなかった。
——否、理解することをずっと拒んでいた。自分に憑き纏う生霊の気配に、覚えがあることを。
朱緒は面倒そうに舌打ちするとベッドの逆サイドに周り、抵抗する秀を無理矢理立たせると背中を向けてTシャツを捲り上げた。
「理解したか?」
「……そんな」
露になった秀の背中には、左の脇腹から右肩に掛けて、大きな蚯蚓腫れが出来ている。
確かにその痕は三日前のあの日——朱緒が斬り祓った刀の軌道に一致していた。
「……離せよッ! 出ていけ!」
朱緒の手を振り払ったが、秀は自力では立てず、ベッドにしがみついてどうにか身体を起こしているような状態だった。
「秀くん、なんでこんなこと……」
「なんでだって? 知らねえのかよ!?」
それまで朱緒を睨んでいた秀が、勢いよくこちらを向いた。苛烈な怒りの表情のなかに、悲痛な叫びが混じっている。
「昨日、日下部先輩がストーカーに襲われたんだよ……! あのアパートの部屋のなかで待ち伏せされてな!」
「え……?」
まさか、と秋帆は驚愕した。今日、花澄が病室で付き添いをしているのは、美雨であるというのか。
「たまたま花澄たちが少し遅れて部屋に来て、レイプは未遂だったらしいけど、その時、男に顔を殴られて顔面骨折の重傷だってよ……」
「……そんな、ことって」
まるで心臓を握られたように、秋帆の胸が痛くなった。
あの美しく明快な彼女が、いったい何をしたというのか? なぜ、そんな目に遭わなくてはならないのか?
秋帆にはまったく理解できなかった。こんな理不尽が許されるはずがない。
「オマエが手袋を見付けるまでは、ストーカー野郎を部屋に入れないために俺があの部屋を守ってたんだ! オマエさえ、余計な真似をしなければ……!」
美雨がこんなことになったのは秋帆のせいだと言わんばかりに、黄色く澱んだ秀の瞳から止めどなく涙が溢れていた。
窶れきった顔で涙を流すその顔は、まるで川底で腐りゆく木像のように不気味で、形容し難い迫力があった。
「……ごめんなさい。 僕のせいだ……」
花澄と美雨から頼まれ、良かれと思ってしたことだった。だが、その結果がこれだ。
友人である秀を傷付け、美雨はストーカーに襲われた。その結果の重大さに、秋帆は自責の念に押し潰されそうだった。
あの呪詛の加護は確かにあったのだ。秋帆が見付けたりしなければ、ストーカーが部屋に入り込むことはなかっただろう。
秋帆の心はすでに折れていた。どう償えば良いのか、見当もつかない。いっそのこと、この場で秀に殺されていた方が良かったのでは――
深く項垂れると、両目から溢れる涙が眼鏡にも落ちた。
病室内は沼のように重い沈黙の底にあった。




