10 日常
朱緒と別れた後、秋帆はその足で近くのお寺へ黒手袋を納めに行った。
もう何の力も残っていないが、念のためにお寺か神社へ納めに行った方が良いとの、朱緒のアドバイスだった。
住職には嫌な顔をされだが、事情を話すと突き返されることはなかった。
あれから三日——残されたものと言えば、夢の中で首を絞められた際に付けられた痣くらいのものだ。
痣だけとは言え、場所が場所だけに見られると心配されそうなので、ネックカバーで隠している。
ようやく穏やかさを取り戻した日常を、秋帆は噛み締めていた。
講義室の後ろを振り返ると、いつものように朱緒はひとりで本を読んでいる。
大袈裟だと言われたが、彼は命の恩人だ。この恩をどうすれば返せるだろうか——そう考えていたところ、友人の声で思考をいったん止めた。
「花澄、今日は午前中の講義出れないって、いまグループチャットに来てるよ」
それまで黙ってスマートフォンを触っていた璃々が、心配そうに顔を上げた。
「何かあったの?」
確認するために、秋帆も慌ててスマートフォンを取り出した。
「サークルの先輩が昨日の夜、病院に運ばれて、先輩の両親が来るまでの間、付き添いしてるんだって……」
サークルの先輩という言葉に、美雨の顔が浮かんだ。
だが、杞憂を振り払った。彼女を苦しめていた生霊は、三日前に片が付いたではないか。
「秀も今日休みだしなー……」
晃生はもう一人の友人の心配をしていた。
「数日も既読が付かないって、ちょっとおかしいよね」
晃生と璃々がそれぞれのグループチャットの画面を見ながら首を捻った。
「大丈夫かな…… 家行ってみる?」
秋帆は一度、秀の家に行ったことがあるので、場所は知っている。
「私は花澄が心配だから、秀の方はコーセーと二人で行ってきて」
「わかった。実家だし、最悪出てこなくても、親から聞いてくるよ」
心配事は一度に重なるものだ。心を痛めながら秋帆もスマートフォンの画面を確認した。秋帆も何度か秀にメッセージを送っていたが、やはり既読すら付いていない。
何の変化もない画面を閉じ、鞄に戻そうと手を伸ばしたとき、手のなかでスマートフォンが震えた。確認したのは、無意識だ。
それは、秀からのダイレクトメールだった。秋帆は見間違いではないかと驚きながらもアプリを開いた。
『連絡があったことは、みんなにはナイショにしててくれない?』
『わかった どうしたの?』
『めっちゃ恥ずいんだけど、先週末チャリに突っ込まれて入院中』
『えっ? 大丈夫なの?』
『二週間入院だってさ』
『どこの病院? お見舞い行くよ!』
『まじ!? ちょー嬉しい 病院食飽きたからコンビニ弁当買ってきて 肉食いたい』
『了解 買ってくね』
『腹減ったから今すぐ来て欲しい』
病院名を聞いたところで、スマートフォンを鞄にしまった。あと数分で講義が始まる。秋帆は急いで教科書を片付けながら席を立った。
「アッキー、どしたの? もうすぐ講義始まるけど」
「急用が出来ちゃって…… 内容また後で教えて!」
「それはいいけど……」
晃生と璃々が不思議そうにこちらを見ている。
そうこうしているうちに、時計の針がちょうど一分前を差した。前の扉から出れば、講師と鉢合わせかねない。
後ろの通用口を目指して早足で机の間を抜ける。
ふと、扉の近くにいる朱緒と目が合った。今度は目を逸らすことなく、彼の視線に笑顔で返した。
「いまから出るのか?」
「うん、お見舞い」
「お見舞い?」
彼の名前を口にしようとして口をつぐんだ。秀には内緒にして欲しいと言われていたし、朱緒に秀の名前を言ったところで、知らないかも知れない。
「数日前から入院してるんだって」
「怪我か?」
「そうみたい」
彼が他人のことを気にするのが何だか意外だったが、いまは深く訊ねる時間がなかった。
「ごめん、急いでるから」
「待て、首の痣まだ消えてないのか?」
秋帆はネックカバーに触れた。
「うん、まだ残ってるけど……ごめん!」
それがどうしたのかと尋ねようとしたところで、前の扉から講師が入ってきた。離席を見咎められる前に、秋帆は講義室を慌てて飛び出した。
(──そういえば、観池くんは僕の名前、知ってるのかな)
秋帆はちょっとした有名人である朱緒の名前を知っていたが、先週末は余裕を失っていたので自己紹介のタイミングを失してしまっていた。
(明日、連絡先を聞いてみる時に、ちゃんと自己紹介しよう)
それに、今回のお礼もしなくてはいけない。
そう考える秋帆の足取りは軽かった。
◇
朱緒から人に話し掛ける姿がよほど珍しかったのか、ちらほらと視線を感じる。それだけのことで妙な注目を浴びて、心底からうんざりしていた。
他人への興味が薄い彼には、理解できないことだ。
「……」
あの彼もまた、数日前まではこの視線のひとつに過ぎなかった。
たびたび彼から、こちらを窺う視線を向けられていることには気付いていた。それは彼だけに限ったことではなく、大抵は朱緒が一人でいることに対する好奇心だったが。
入学直後は声を掛けられることもあったが、二言三言話すとすぐに離れていった。
自分の物言いや態度に険があることは充分自覚している。しているが、直すつもりはない。自分を殺して、磨り減らしてまで周囲に馴染みたいとは思わない。
かと言って、学部内で波風を立てるつもりは一切なく——というか、波風を立てないために、人間関係を築きたくなかった。
ふたつを両立させるためには、他者と関わりを最低限にしながら大多数におもねることが、一番楽な方法だった。
極論であり消極的な方法だが、大学に入学してからの二ヶ月は平穏無事に過ごすことができていたのだから、それを四年間貫き通せば良かったのだ。
——こんなことにさえ、ならなければ。
「……」
壇上では講師が授業を始めていた。もう誰も朱緒のことは見ていない。
文庫本を鞄の中にしまうと、彼が出ていった後の扉を見詰めて舌打ちした。




