15
夜中に海はひどくうなされていた。一度目を覚ましたけれど、ぼんやりとしていてこちらを見ていても見ていないみたいな虚ろな目をしていた。サイドテーブルに置いてあった水差しからコップにお水を入れてわたしたら、それを一気に飲み干してそのまま倒れ込むようにしてまた眠ってしまった。そしてまたうなされていた。
一緒に眠っているベッドからそっと抜け出して氷水に浸したタオルを持ってきて、彼の顔や腕を拭いていたら、少し落ち着いた様子になり、そのうちにすうすうと健やかな寝息を立てだしたので、ほっとした。
翌朝目覚めると海は既に目覚めていたらしく、目が合ったら優しい瞳で「おはよう」と言った。まだ早朝で、鳥の鳴き声が公園の木立の方から賑やかに響いている。窓が少し開いていて、そこから微かな木の香りとひんやりとした風が入ってきていた。
「夜中ずっとうなされていたけれど、大丈夫?」
「うん、すっきりしている」
「浴室も好きに使っていいって。着替えも用意してくれているよ」
「うん、シャワー浴びたい」
言って、彼は起き上がった。そうしてそのまましっかりした足取りで部屋を出て行った。一人になった私は少しベッドの中でうとうとしていたけれど、鳥の声に誘われるようにして起きた。
「あ、おはよう」
顔を拭きながら洗面所から出た所で、こちらにやって来た陸と会った。「おはよう」と言う彼と入れ違いに廊下に出ると、そのままリビングルームに向かって、ガラス戸を開けて(キイナに借りた)パジャマのままで外に出た。置いてあった聖一さんのサンダルを借りて。賑やかな鳥の鳴き声は公園の境界領域にある鬱蒼とした木立からで、よく見てみたかったのだ。近づくと樹液のあまい薫りが漂っている。
背の高い木で、上の方に鳥たちがいるのはわかるけれど、その姿をはっきりと見ることはできなかった。ううむ、ざんねん。名残惜しくそこで上を見上げていたら、陸がリビングルームからこっちを見ているのに気づいた。手を振ったら、彼はそのまま中に引っ込んで、しばらくして自分の靴を持ってきて、パジャマのままで庭に出て来た。
「空もすっきり晴れていて、空気もひんやりして気持ちいいね」
「うん」
一緒に木の上の方を眺めていたら、陸が上を見上げながら言った。
「何か色んな変な夢をいっぱい見たんだけど、これって神奈の言っていた夢と関係あるのかな」
「どんな夢だったの?」
隣にいる彼に視線を移して私が尋ねると、彼は私を見つめて
「みんないるんだよ。ここに集まったみんな。でもなんというか、見た目が全く違っていて、人間じゃないみたいなんだ」
私が頷くと、続けて彼は言った。
「沙羅もいた。……でも、沙羅は俺の目の前で俺をかばって死んだんだ」
聖一さんが言っていた出来事だ、と思ったけれど、私は黙っていた。
「なあ、これって、本当にあった事なのか?」
私はこちらを真っ直ぐ見ている陸に特に感情を籠めずに答えた。
「わからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。確かめようがないもの」
それは私も本当にそう思っていたからだった。
それに、あまりそれに囚われてしまうのもよくないように思ったから。
「でも、聖一さんも同じことを言っていたよ。気になるなら訊いてみたら?」
陸は「……いや、今はいいや。どうしても知りたくなったら訊くかもしれないけれど」言って、「海は? どんな様子?」
「夜中にかなりうなされていたけれど、今はすっきり目覚めてシャワー浴びているよ」
「浴室に居たのは海だったのか」
「うん。聖一さんは母屋にも自室があるから、そっちにレネ君と泊っている」
「すっかりお世話になってしまったなあ。……帰る前にリネン類を洗濯しておきたいんだけど、そっちのも一緒に洗ってしまおうよ」
「うん、そうしよう。借りた服も一緒に洗ってしまいたいし。お天気もいいからすぐに乾くよ」
聖一さんの仕事場には二階のベランダと庭に物干しスペースがあるので、リネン類も洋服も干す場所に困らない。ただ二階に勝手に上がるわけにはいかないので、彼に一応断ってからじゃないとな。とりあえずリネン類は後回しにして、先に借りた服を洗濯してしまう方がいいかな。
「海がまだ眠るかもしれないから、それも確認しようか」
そう言ってリビングルームに戻っていく陸の背中を私も追った。
その日はほぼ一日、聖一さんとレネ君から教えてもらう、遥か遠い昔、遠い遠い宇宙のどこかにあった星の最期の物語を聴いて終わった。当初陸はあまり気が進まなそうだったのだけれど、海が積極的に知りたがったので、結局みんなでそうすることになった。海はずっと真剣に話を聴いていた。そうして質問をいくつかしたりしていたけれど、それだけで自分からは何も特に言わなかった。陸は最初から最後まで黙っていた。でも話はじっと聴いていた。
私と言えば、話の途中で聖一さんが彼等に話していた星の地図の円環についての詳細な説明が印象的で、後半は話半分に聞きながら、それについての話をずっと反芻していた。
星の地図の円環には上昇と下降と水平方向の基本定なバランス達成課題があったけれど、特に上昇と下降、それについて解りやすいように、この世界の思想哲学や心理学や精神分析学などの概念を使った説明を詳しくしてくれたのだ。それは海が詳しく知りたがったからだけれど、陸も興味深そうに聴いていた。
上昇は低位から上位へ差し伸べる愛や希求、より高い、より大きなアイデンティティを求め、ひとつにまとめていこうとする、愛するものとの結合の衝動。それは軆から心、魂、霊へと向かい、神聖の深度を深めながら、最終的な結合が結び合わされるまで永遠に続く。智慧を通じて私達を上昇へと招く、遥か彼方から私達を呼び続ける、オメガポイントへの帰還。永遠への回帰。永遠の故郷への還流。
大切な事は、そこには身体的な愛の衝動や愛の表現も含まれるという事だ。軆は神聖な愛の表現の出発点であって、卑しいものでも唾棄すべきものでもない。性愛を低いものとして現世的な卑しいものとして扱うことは間違いであって、それは神聖な愛の表現を互いに分かち合う霊的な交流の出発点にもなりうるし、低いもの、卑しいもの、自己利益や快楽の為の道具として扱うこともできるというだけで、それをどのように表現するか扱うかはひとりひとりが自分で選ぶことでしかない。
上昇への愛の衝動、希求、それは本質的に自己超越、発達、進化の原動力に他ならないからだ。
下降は高位から下位への愛や思いやり、慈悲、アガペーとして顕現する。それは抱擁され、充満される。それは現在のレベルに至る上昇と発達の全ての段階で起こりうる。多者となる一者。善性と慈悲。全ての魂は「至高存在」のこどもたちであり、私達が本当に誰かを愛するとき、その彼(彼女、存在)に所属するすべてを愛する。愛は拡張されるのだ。
全ては現前していて、至高の存在、魂、霊はこの広大な天体のあらゆる点に自らを与え、偉大なるものにも卑小なものにもあらゆる部分にその存在を与えている。万物は魂の完全性によって生きている。広大で多様なこの宇宙、天体のすべてが神聖であり、太陽も星も神聖であり、私達もまた神聖である──現世から離れて他の世界を見つけようとするのは完全に本質を見失っている。
それは単なる知覚の問題なのだ。私達が自分たちの軆、心、魂、霊のなかに、あらゆる存在のすべてに、神聖性や永遠性、仏性を思い出すとき、私達は神聖性や永遠性、仏性と共に在る。現世が即浄土なのだ。私達が神聖性や永遠性、仏性を忘れている時には単なる物質に浸されている。神聖性も永遠性も仏性もあらゆるところに偏在し、どこにもいない。同じとき、同じ場所、異なる感覚、認識、世界観──時間や空間を移動するのではないからだ。
私達は、上昇と下降、智慧と慈悲・アガペー、超越と内在、還流と流出・創造、永遠に続く収縮と拡張のバランスをとり、ひとりの個人の中でもバランスを達成する必要があるのだ。上昇と下降、この二つの愛があいまって、そのなかで宇宙の生命が構成され、その本性に従って働いている。自律性をもち、宇宙のリズムの中で働いている。
上昇とは、低位から高位へ差し伸べられる愛であり、智慧を通じて、アガペー・慈悲の源泉へと私達を導く牽引力であり、オメガポイントからの永遠の呼び声──calling──召命に自ら応えることであり、下降とは、高位から低位へ差し伸べられる愛であって、アガペー・慈悲を顕している。
智慧を通じて私達を招き、私達自身のアガペー・慈悲の輪をさらに多くの存在へと及ぼすように拡大していく永遠の上昇と下降の円環。永遠に続く収縮と拡張。この広大な愛の円環は、個人の発達では、上昇のより広い、より高く、より深いアイデンティティへの拡大を通じて統合される。
調和のとれた発達は、超越し、包摂する。それは否定と保存。上昇と下降。智慧とアガペー・慈悲。上から下までの存在の生きた連鎖の連続。拡大し包括するこの円環は、螺旋階段を昇るように、あらゆる種類の行き止まりや逆戻りがあったとしても全体的には一つの方向を指し、先行する段階を超越し、包摂していく。
細胞は分子を含んで超えている。分子は原子を含んで超えている──このように、上位の段階は下位の段階を超えて含み、入れ子構造になっている。自然の発達の階層構造とは、まさに、こうした超越と包摂によるものなのだ。
そして、個人の中でこの上昇(還流、帰還)と下降(流出・創造:アガペー・慈悲)が統合されないとき、そこに分裂や疎外があるとき、それは恐怖や敗走、パニック、混乱、死への衝動として(そしてそれらが外化されれば、文字通りの攻撃性、破壊、殺傷衝動、サディズム的衝動や欲望として)顕れる。
統合されない上昇は、ただ高位に手を差し伸べて低位を超越するだけではなく、それを包摂せずに、低位を切り離し、分裂させ、疎外し、抑圧する。それは恐怖の為であり、低位によって引きずり降ろされるのではないかという恐怖、パニック、混乱から敗走する上昇への衝動、腐敗した超越、抱擁のない超越、保存のない否定、アガペー・慈悲を欠いた上昇の病んだ姿なのだ。
統合されない下降は、その逆に上昇から切り離された下降であり、それは高位から逃走した低位であり、狂ったアガペー・慈悲として顕れる。低位を抱擁するだけでなく、そこまで退行し、そこに留まろうと(固着・停止)する。それは還元的な衝動であり、すべての高位を否定し、低位の名のもとに高位への衝動や希求を封印し、分裂し、疎外し、殺害する、魂や霊との結びつきを失った死と物質の宇宙である。それは低位を保存するが否定する事は拒否する。そしてそこに留まり、病んだ関係性のなかへと埋め込まれる。それは魂や霊を希求する高位への還流・上昇を欠いた、病んだ下降の姿なのだ。
アガペー・慈悲を欠いた病んだ上昇、魂や霊を希求する高位への還流・上昇を欠いた病んだ下降、それらは双方とも必然的に、この世界を破壊してしまう原動力となる──
聖一さんが説明してくれたものは、ざっとこんな話だった。
本当はもっと専門用語が入った詳細な説明があったのだけれど、私の記憶力と理解力には限界がある為、致し方ない。海や陸の方がもっとちゃんと覚えているかもしれない。かなり真剣に聴き入っては、質問もはさんだりしていたから。
晴れて海と陸が回復して社交可能になると、案の定その夜はまた聖一さんの仕事場の庭で野外バーベキューパーティーになった。ここの人達(桜澤家の皆さま)はとにかく理由をつけて集まって飲みたいのだ。多分……。
聖一さんの配慮で、二人には自分の緊急の仕事を手伝ってもらっていて、それに集中しているから社交に割く時間はない、と母屋で皆様にはきっぱりと言い渡されていたのだけれど、私達が朝早くから仲良く洗濯物を庭で干したりしていたのを目ざとく見つけられてしまい、その仕事は終わった体にすることにするしかなくなったからだった。
「なんかまた大袈裟になってしまった……」
聖一さんは困ったように笑っていた。海と陸は楽しんでいたし、特に剣豪と各種武道に秀でた先輩たちから直接色んな話を聴けたり教わったりできるので大喜びだった。気持ちよく酔っぱらって機嫌をよくした剣豪のお父様に竹刀を握らせてもらって、そこで即席の指導も受けていた──最終的には、もはやちゃんばらごっこを楽しむ男子の群れと化していたけれど……(ほんと、男って……)。
海も陸もキイナとは顔見知りだし、初めて会う克己君とも仲良くなったし、聖一さんもビール片手にみんなと楽しそうにしていたし、レネ君も海や陸と一緒にはしゃいでいた。
そんな風に何だか色々あったここ数日の滞在最終日は終わった。
大学二年の夏季休暇がやってきたけれど、私はバイト、海は研究室があるのであまり普段と変わらない過ごし方になった。お隣の海の家に泊まらせてもらうのは夏季休暇中も続いた(海と陸のご両親は秋まで帰国しない予定だった)けれど、私は講義もないので海が大学に行っている日中は自宅に戻ったり、友達に会ったりしていた。特に不穏な事は何もなかったので、平和に日常は過ぎた。変わった事と言えば、うちの家族に不思議な縁で加わったワンちゃんのポテトの存在と、私の両親がポテトに夢中になった事くらいか。
陸と沙羅はこの国の南方にある石垣の島に長期旅行に行った。エコビレッジを見学に行くのだそうだ。そこらへんにあるもので家を創ったり村を創ったりするサバイバル技術を身につけるのがこれからの時代の生き方だ!! と陸は偉そうに私達に言っていた。この国には世界でただ一人のエコビレッジビルダーなる人(山納銀之輔さんというらしい)がいるのだそうだ。そのエコビレッジについて学ぶために、彼等は自分達のフィールドワークも兼ねて行くらしい。面白そうだし興味はあったけれど、私も海も動けないので、二人のお土産話を楽しみにすることにした。
夜明けの扉 “Gates Of Dawn” 4章 終り




