8
あのワンちゃんの飼い主である田村真苗さんは、高校三年生の女の子で、母親との二人暮らしとの事だった。陸が撮影した動画の不審人物は彼女の母親で間違いないらしい。彼女が「私の母です」と動画を見つめてそう言ったのだ。そうして彼女は私達にこうも言った。
「遠い親戚から、あなた方の事を監視するように頼まれていました」
リビングルームで私達はテーブルを囲んで話していた。田村さんの隣に私、目の前に両親がソファに座っている。海と陸はまだ帰ってきていなかったが、こちらには来ないとの事で、後で話を聞かせてほしいと私に連絡が来ていた。
「監視?」
随分と物騒な言葉だけれど。私達はどう反応していいのか困惑する。父が硬い表情で「詳しく話してください」と続きを促した。
「簡単なアルバイトがあるのでしてみないか、と始めは誘われました。……仕事の内容は、毎日連絡で指定された時間、場所に犬の散歩に行くついでにあなた達の様子を監視する事で、誰と一緒にいたか、何を買っていたか、その様な事を報告する事でした」
彼女は少しうつむきがちにそう答える。
「その遠い親戚の人はどういった人なの? 何故私達を監視してほしいなんて頼むの?」
母が尋ねると、彼女は少し声を震わせるようにして
「その人は、ある宗教団体の幹部をしている人です。こうした依頼を他の人にもよくもちかけていて、その宗教の人達や誘われた人を使って集団で特定の人を付け回したり、嫌がらせをして精神的に追い詰めるようなことをしています。私が数回引き受けた後、やはりなんだか気が進まないのでお断りしたら、組織がついているから私達の事も見張っていると言われました。警察に相談しても無駄だ、協力しないと次は私達が標的になる、と脅されました。あなた方を監視する理由については、悪い奴らだから、と言われました」
しばらく私達は何を言っていいのか分からず、目の前で怯えたようにしている彼女を見つめていた。口火を切ったのは母だった。
「あなたのお母さんが家の中を覗こうとしたのもその人に指示されてなの?」
「はい、盗撮用の隠しカメラを仕掛ける様に言われていて、それをしようとしていたんです。でもできなかったそうです」
「それで、どうしてあなたは、これを私達に話してくれることにしたの?」
彼女は膝の前で両手をしっかり握り合わせるようにして
「私達自身も嫌がらせをされているからです」
ちなみにその宗教団体って? と尋ねたら、案の定、聖一さんの所の相談者からよく聞くカルト集団の名前だった。この国ではけっこう大きな宗教団体だけれど実際は犯罪カルトテロリスト集団で、集団でいじめや嫌がらせを正義だとして色々な場所で実行する事で有名なカルトだ。海外ではカルト指定されているのに何故かこの国では野放しで、信者の多くが政治経済、司法や警察、官公庁や民間のあらゆる所に入り込んでいるので、問題を起してももみ消されるのでも有名だった。
「自宅に侵入したり、盗撮や盗聴をしたり、物を盗んだり、飲食物に異物を混入したり、標的の後を集団で付け回したり、在る事無い事を噂でばら撒いたり、体や精神に害を与える悪臭を散布したり、こういうのは彼らの日常茶飯事なんです。そうして標的を精神病にさせたり、自殺させたり、家庭崩壊させたり、退学や退職に追い込んだり、仕事を失わせたりして、標的や家族を破滅に追い込む事が上手くいくとみんなで喜び合います。祝賀会を開いたりします。子供もします。いじめや嫌がらせの部活動みたいなもので、彼等はそれを楽しんでしています。いじめや嫌がらせや犯罪行為は彼等にとっての正義なんです」
知ってはいたけれど、改めて聞くと本当に酷いな、と私はあきれていた。
「でもそれって、単なるその人たちの趣味嗜好みたいなものだよね。いくら何でもそれを正義と思い込むには、普通は相当にその思考に無理をしないとできないもの。生理的な気持ち悪さがあるし」
私がそう言うと両親も頷いていた。
「相手は悪い奴だから何でもしてもいい、彼等はみんなそう言います」
「その悪い奴ってどういう基準で決めているの?」
母が質問を尋ねると、彼女は首を傾げた。
「さあ」
「さあって……」
「田村さんも嫌がらせを受けているのなら、彼等にとってもあなたも悪い奴って事になっているのではないの?」
「多分そうだと思います」
「あなたは悪い事をしているの?」
「私がしていた悪い事は彼らの依頼を受けて、あなた達を付け回して監視していた事です。普段彼らがしている他の事にも誘われて見せられたので知っていますが、そこまでは私はしませんでした。明らかに犯罪行為でしたし、怖かったので」
「なら、悪いのは相手じゃないの」
「……そうだと思います。でも、彼等にとっては私が悪い事になるのだと思います」
父親はため息をついた。
「いじめや嫌がらせや犯罪行為を正義だと思い込んでいるんだ。頭のおかしな連中にまともな倫理観がないのは当然だろう。以前だってそうだったんだ。今更驚かないよ」
彼女は「以前?」と不思議そうにする。私はかいつまんで以前に遇った亜美ちゃん関連の犯罪被害について話した。彼女は黙ってそれを聴いていたが、私が話し終わると、
「それは本当ですか」
「嘘言ってどうするの、公正証書もちゃんとあるよ」
「……」
彼女は黙り込んだ。父が書斎から弁護士が作成した公正証書などを持って来て彼女に見せていた。警察に提出する為に作成した被害内容の写真付きの資料もある。彼女はそれを黙って凝視していた。血まみれの魚の臓物と切り刻まれた私の下着を和えた亜美ちゃんからの贈り物の写真を見せて「こういう事をされていたの」私がそう言うと、彼女は黙っていた。それから私達に話し出した。
「ごめんなさい。実はあなた達が何故悪い奴なのかという理由は聞いていました。でもそれは今聞いた内容の全く逆で、あなた方が何人かの女の子たちやいくつかの家族に嫌がらせをしていた、それで自殺未遂をした子がいたり、親が自殺をしてしまったり、学校を退学に追い込まれたり、嘘の罪で警察に訴えられたり、精神を病んでしまった人がいたり、仕事を失ってしまった家族もいたりしたのだと聞いていました」
うーん、聞けば聞くほど責任転嫁が甚だしく酷いが、でもそれって自己紹介というやつでは。全部自分達が普段からしている事なのでは。私はあきれ返ってしまい、もう何も言う気がしなかった。
「それをあなたに言うという事は、確実に彼等は普段から自分達のしている事は悪い奴に相当する事であるときちんと自覚しているという事でもあるのだけれど、それが一体どういう風に正義にすり替わるのかしら」
本当に不思議そうに母が尋ねるが、そんな事を聞かれても彼女にも答えようがない。
「そういう精神の内側の世界に、自分にとって都合の悪い事を犠牲者に責任転嫁する為の外化構造というものがあって、そうした選択を自分自身で繰り返しているうちに脳も機能的に変化してしまった人が世の中には沢山いるんだって」
私が簡単にそう説明すると、母は「まあ、それは」と言った。そしてため息をついて言った。
「とってもはた迷惑な話ね」
ごもっともです。
「それって治るのかしら」
「更生自体は不可能ではないけれど、でもすごく難しいみたい。本人がまずそれを望まない可能性の方が高いからだって」
「まあ、そうだろうな。何と言っても、自分は正しい位置にいると信じ込んでいるのだし」
父がそう言って、田村さんに尋ねた。
「それで、君はもう私達家族を監視する依頼を受ける気はないのだという事でいいのかな?」
彼女は頷く。
「あなたのお母さんはどうなのかしら」
「母もそうだと思います。嫌がらせ被害で精神的に参ってしまっていて、うつ状態になってしまったので、そんな事をする元気もないと思います」
「まあ、……ワンちゃんは大丈夫? お世話できるのかしら」
そこなんだ、と思いながらも、私も気になったので彼女を見つめる。
「実は、母の世話で手一杯になりそうで、もしかしたら手放すしかないのかもしれないと思っています」
「なら、うちで引き取ってはダメかしら」
「……」
心配そうに。でも救いを求める様にも母を見る複雑そうな彼女に、母はどんとこおい、とばかりにきっぱりと言った。
「大丈夫、きちんとお世話させていただくし、可愛がるわ。あなたもいつでも会いにくればいいじゃないの」
田村さんは泣き出してしまい
「私が小学生の頃からずっと一緒にいたんです。名前は、ポテトです。ポテトチップスが好きなんです。でもあまり食べても体に良くないので、本当にたまに少しだけあげると喜びます。九歳です。少し肥満気味なので、ダイエット食にしています。お気に入りのぬいぐるみで遊ぶのが好きです。寂しがりなので一緒に寝てあげてほしいです。お外で遊ぶのも散歩も大好きです。雨でも外に出るのが好きです。公園の端にある赤い屋根の家にいるテリアのジョン君と仲良しです。それから……」
延々と説明しだしたので、とりあえず最後まで聞いて、「良かったら、全部文章にしてくれるとありがたいのだけれど」と母が言ったら、「はい。全部書いてきます」と彼女は泣きながら言った。何故か父がもらい泣きしていた。
「あ、あと大事な事を、言い忘れていました」
彼女ははっと顔を上げて、私を見た。
う、何か嫌な予感がする。
「お嬢さんの事も、他の人達が監視しています。常時複数人が入れ替わりで尾行していると聞きました」
両親の表情が硬くなる。
「それは今でも継続されているということなのかな?」
「はい、そうだと思います。何人かは私も顔を知っている人だと思うので、防犯カメラの映像があれば私もその人達がわかるかもしれません。住所までは知りませんが、彼等の名前は知っています」
そう言ってから、彼女は少し躊躇いがちに言った。
「彼らは盗撮や盗聴を当たり前の様にしていました。こんな事も出来るんだ、と私に自慢していたくらいですし。それに留守中に無断で家宅侵入をするのも普通にしています。犯罪行為ですけれど、全く罪悪感を持っていませんでした。むしろ優越感を持っていて、それを愉しんでしていました。物を盗んだり壊したりもそうですし、人体に有害な薬物や、幻覚・幻聴作用のある微生物を飲食物に混入する事もしていました。精神的に追い詰めるだけではなく、標的が被害を訴えても、精神病だと周囲から思われるように、計画的に状況を整えていく事もします。本当にかなり悪質な犯罪行為を色んな標的に対してしていました。組織から嫌がらせを担当する標的のリストが送られてくるのだそうです」
父が「それは警察に相談はしたの?」と尋ねると、彼女は、
「警察に言っても無駄です。警察の中にもその宗教団体の信者が沢山いますから。被害者の訴えを真剣に相手にせず、適当にあしらわれます。弁護士や裁判官の中にも組織の人はいます。加害者に有利なおかしな判決を出すので有名な信者の裁判官もいるそうです。組織に罪をもみ消してもらえるので彼等は犯罪行為を全く悪いと思いませんし、自分達が重い責任を取らされることもないと知っていてやっているんです。せいぜい注意程度で無罪放免になると知っているので反省した振りをしながら笑っていられるんです」
父は眉根を寄せて唸るように言った。
「確かに、私達の時も結局は、加害者達はあれだけの事をしておいても未成年者だからという事で甘い処分で済ませられてしまった」
田村さんは目を伏せた。
「中には私の様に脅されて協力させられていた人もいると思います。でも、殆どの人達が部活動でも愉しむように、そうした犯罪行為をしていました。標的を自殺や破滅に追い込む事ほどの快感はない、と言っていましたし。彼等にとってはいじめや嫌がらせをする事や組織から与えられた標的を追い詰めて殺してしまう事は自分達の正当な権利で、最も愉しい娯楽なのだそうです」
──本当に、気持ち悪いどころの話ではないと思う。こんな妄想を信奉している狂信者が、文字通り野放しになってしまっているんだから。善人や無害な一般人として社会に何食わぬ顔で狂信者の快楽殺人者が紛れ込んでいるなんて、本当に胸糞悪い。しかも彼らの組織は実質はカルトテロ組織で、国内を内部から破壊する為の破壊工作としてのスパイ活動やテロ工作をしているわけだし。




