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ある日、私はキイナの家にいつものように学校帰りに遊びに来たはいいけれども、チャレンジャーの克己くんがキイナとなんとなくいい雰囲気になっていたので気をきかせて急に用事を思い出して帰ることにした。私は道場の裏口から中庭を通って桜澤家の正門まで歩いていたが、途中で、あ、かばん、とキイナの部屋に自分の学生鞄を置いてきていることを思い出し、母屋の玄関に寄ってチャイムを鳴らした。しかしタイミング悪く、みんな道場の方かどこかへ出かけているらしくて誰もいないようだった。それで道場までまた戻ってキイナに家を開けてもらうか、とため息をついていたら、背後から聖一さんに声をかけられた。私がひとり玄関前でうろうろして困っている様子が離れの窓から見えたらしい。
「家に入りたいの?」
彼がそう声をかけてくれて私はほっとした。
「鞄をキイナの部屋に忘れて来てしまって」
彼は頷いて、
「ちょっと待ってて」
離れの方から家の鍵を持ってきて開けてくれた。
「一人で勝手に上がるのも気がひけるのでついてきてもらえませんか?」
私が遠慮がちにそう言うと彼はまたちょっとじっと私の目を見つめてから、にこっとした。
「いいよ」
それで彼に先導してもらうようにしてキイナの部屋に行き自分の鞄をとってくることができた。
玄関を出たところでお礼を言っていたら、彼は家の鍵を閉めながら
「もう帰るの?」
「うん、ちょっと急用を思い出したので」
私がそう言ったら、彼は私をまたじっと見てから
「そのわりにあまり急いでいないみたいだね」
くすっと笑った。
なぜだか私はちょっと赤くなった。
悪意のないくだらない言い訳の為の嘘だったけれど、なんだか嘘を見透かされた感じがしたので
「実は克己くんがキイナといい感じになっていたから二人にしてあげようかと思って、お邪魔虫は退散することにしたのです」
聖一さんは明るい声であははと笑った。
「お邪魔虫か。ずいぶん可愛らしいお邪魔虫だね」
なんかほめられてんのかな。
「そうか、あいつもがんばってるんだなあ。チャレンジャーだからな」
にこにこしながら彼はそうも言った。
彼は健気なチャレンジャーの克己くんに好意的なようだ。
「聖一さんは克己くんを応援する派?」」
「応援するも何も、彼らの問題でしょう」
鷹揚に言う彼に、私は言った。
「聖一さんは中立派なんだね」
聖一さんはちょっと笑って
「何派かどうか決めていないけれど、中立だろうね。僕は何ごとにも干渉しないから」
すごいシスコンなのは彼を除いた三兄弟のことらしい。
何となく彼だけ毛色が違う──聡子はそんな風に言っていたな。
そんなことを思い出していたら、彼は私をちょっとじっと見つめてから言った。
「神奈ちゃん、時間があったらちょっと寄っていかない? すごくいい香りの紅茶をお客さんから頂いたんだ。一人で飲むのももったいないし」
私はちょっとびっくりして
「お邪魔じゃないの?」
聖一さんは笑って言った。
「全然邪魔じゃないよ」
聖一さんの離れの家に招待してもらうのは初めてだった。
独立した小さな家の中はコテージみたいでリビングには暖炉があった。木のいい香りのする清潔であたたかみのある居心地の良い空間に迎え入れてもらって、私は初めての場所に緊張するよりも、なんとなくほっとするようなくつろいだ気分になった。簡易キッチンで紅茶をいれて彼はリビングに持ってきてくれた。リビングには木目の美しいテーブルとゆったりした上質なソファがあり、暖炉の上には本が数冊重ねて置いてあった。掃き出し用のガラス戸の前にはつやつやした緑の葉を繁らせた観葉植物がある。
「素敵なところ」
私がほうっと息をついて言うと、彼は
「どうもありがとう」
そう言って、テーブルにセットした温めた薄い白磁のティカップにティポットから熱い湯気を立てる紅茶を注いでくれた。室内には湯気と共にふわっと香気が広がった。薔薇の香りのする紅茶だった。
「うわあ、ほんとだ。とってもいい香り」
私がそう言うと、彼はにっこりした。
お茶うけに可愛らしい花の形をしたクッキーも出していただいた。
彼はちょうど仕事の区切りがついたので息抜きをしようと思っていたところだったのだと言った。
「聖一さんはここでずっとひとりでお仕事をしているの?」
私が尋ねると、彼は頷いた。
「高校生の時からずっとここにいる。遊びで友達と作ったプログラムの権利がたまたますごく高く売れてしまって、ちょっといろいろたいへんになって、それで対策のために当時家の隣の敷地が売りに出されていたのもあって自宅の敷地を拡げてここを仕事場として建てたんだ。そうして自分の会社を立ち上げてしまった方がそのときは楽だったからそうした。何だかそれ以来ここにずっと住みついてしまった」
「ふーん」
私たちとそんなに変わらない年の頃からお仕事もして、学生もして、ほぼ一人暮らしみたいな生活かあ、ちょっと想像もつかないや。なんかたいへんそうだな。でも、彼にとってはその方がらくなんだろうな。なんかそれは分かるような気がした。
「僕は幼少から病弱だったから母親や家族から過保護にされることが多くて、でも仕事としての線引きができたことで、ちょっと楽になったんだよね」
彼はそんなようなことを言っていた。
薔薇のいい香りのする紅茶とメープルシュガーの甘く芳醇なクッキーを頂きながら、彼とはなんだかいろんな話をした気がする。ふだん友達と話せないようなことも彼とは話せたので楽しかった。彼は物知りで、物理学にも詳しくて宇宙の話とか量子の話とか、数式を使えば楽に伝えられるようなことをその数式が理解できない私にもわかりやすいように哲学的に文学的に話してくれたりして、それはとても面白かった。彼は話がとても上手だったし、教えるのもとても上手だった。宇宙の神秘や森羅万象の真理にたとえようもないロマンやエキサイティングを感じる私からしたら、最高の茶飲み友達だった。




